経営学部

大学へ入る君たち、そして御家族へ

2021.01.05

年末年始に4年生や卒業生、修了生と、電話やリモートで結構話す機会があった。
最近は個人SNSの方を主体に書いていたのだけども、
大学生諸君、受験生諸君らの将来にかかる話なので、
この教員用の公式ブログに書こうと思う。

まず、コロナ禍で4年は就活にかなり苦戦した。まだまだ戦っている者もいる。これは決して偏差値勝負ではなく、経験やフィールドワーク主体に体力を上げる方針のうちの大学では珍しい事ではなく、例年、「面接では体験や実務をセールスポイントにしなさい」と言うように指導をしている。単に見聞きした情報的学問よりも、”他者の知りえない、オリジナルの体験”こそが面接では強いという事は社会人ならば誰もが知る処だ。面接をする側も”実体験とそこから学んで発した言葉”は、実体験故に簡単には否定できないからだ。ただやはり、苦戦はする。「うまく体験を話せなかった」等の愚痴を多く聞かされたが、これは実は「体験から得た自分の成長を伝えられなかった」という、面接テクニック上、ES作成上の彼らのミスでもある。

一方で卒業生・修了生たちはどうか。
やはり仕事で苦戦をしているのだが、その悩みは4年生とは少し異なっている。
「先生があれだけイヤがっていたボクたちに『いいからやっとけ。必ず役に立つ』って言ってた理由が本当によく判りました」
「先生が言ってたのはこういう事だったんですね。言われた通りでした」
等と、”今更ながら理解した”的な発言は、まあそれこそ毎年のテンプレなのだけれども、彼らには実はその先がある。
「他大の同期も似たような実務体験を武器に入社してるんですけど、ヤツらがスゴいのって中学や高校の頃からこの仕事目指してコンテンツ創ったりしてたんですよね。それで大学に入ると同時にプロの現場へ飛び込んだりしてるんですよ。ボクらは早くても2年になってからか、せいぜい公野ゼミに入った1年生の年末くらいから。そんなヤツらに適うワケないじゃないですか」

……。
「……君は高校時代はなりたいもの無かったんだっけか」
「先生、そんなの大学に入ってから探すか、探す為に大学に入るもんなんですよ」

ほう。いや、待て、待て。

大学はいろいろと学生に対するホスピタリティを上げてきている。私自身が大学生だった時分と比べると、素泊まりユースホステルと五つ星ホテル並みの違いだ。いや、まったく大げさではなく。当時の教務など、こちらが退学しようが落第しようが何も関知しないし、規定時間が1秒でも過ぎると窓口はガラガラぴっしゃん!てなものだった。当たり前と言えば当たり前である。社会に出たらこんな厳しさ処ではない。

そこでちょっと気づいた。

かつて大学は中高の延長にある、義務教育的な社会常識を教える場では無いだけではなく、生活を指導をしたり将来の夢を見つけさせたりする為の場所でもなかった。
少し語弊があるかな。
夢への地図を書く場所ではあるが、夢が何なのかを教える場所ではなかった、という事だ。夢そのものは誰のものでもない。自身が夢だと決めるものだからだ。そこだけはいくら大学でも、他人には教えられない。

我々の世代は、入学時に将来になりたいものが無ければ恥ずかしかった。少なくともいくつかのゴール(職種・職能)を設定して入学したり、在学中に選択肢を増やしたり絞ったりしながら、専門知識を学ぶ事でフォーカス、選択していくのが大学生活だった。

元々が「〇〇になりたい。その為にはどの大学のどの学部に入らなければならないか?」を高校時代に検証して選択し、入試を迎えるのが当たり前だったのだ。間違っても「担任に『ここにしとけ』って言われたんで」とか「親に『大学ぐらい行っとけ』って言われたんで」と言うような身震いするほど恥ずかしい動機や事由は我々世代には存在していなかった。

『価値観の変遷』――いや、もはや『変転』だ。

時代の進む速度は早くて恐ろしい。もちろん諸君らが悪い訳ではない。我々を含めた先人たちでそんな時代にしてしまったのだ。

つまりその頃の大学とは”①目標とする職業を得る為に学修する場所”であり、”②なりたい職業の為にその職業の専門知識を得る場所”であり、さらに学友や社会体験を通じて”➂人生の為の知見を広める場所”だった訳だ。仮に➂しかなかったとしても、それが①や②に連ならなければ、大学の意味はない。

ただ3年生に最近、こんな事を言われた事があった。
「父から”お前に楽しんでもらう為に大学に行かせたのに、そんなにタイヘンなら辞めなさい”と言われた」
という話だった。コロナ禍での課題の多さの所為で大学を辞めるという話なのかと思いきや、インターンやアルバイト先での仕事が大変ならそのインターンやアルバイトを辞めなさい、というものだった。
「お父様はさ、君にどんな学生生活を送って欲しいと思ってるのかな?」

思わず尋ねた処、
「父の時代は学生時代遊びまくっていたそうです。私にも楽しんで欲しいって」
「……」

確かにわれわれ世代はバブル期で、家庭にもお金はあったし、アルバイト代も高額で、夏は南の島、冬はスキーと遊んだものだった。➂の特定方向への自己解釈である。確かにそうする事で知見もネットワークも広がっていた。

うむう。

われわれ大学教員の第一義とは、諸君らの①と②に貢献する事だ。我々は義務教育や高校のように専門的に担任型の教育や生活指導をするような研修は受けてなどいない。例えば私なら、コンテンツの製造技法や知的財産権の運用が専門の研究領域であり、具体的にその製造方法を講義し、産業就業時に専門知識となる知財法務の運用方法を講義している。つまり特定領域の専門家である。
その領域のエキスパートとして立脚し、その具体的・理論的技術や概念・商習慣等を、われわれの苦心した貴重な研究成果の中から、学費の対価として、諸君らだけにお伝えしているのである。

社会人ならば、例えば会社員が「異動で宣伝部門から部材調達部門に移ったので、部材の調達流通や契約を学ばなければならない」というようなケースが普通に起きる。そんな時、研修を受けたり、自腹ででも教本を購入したりセミナーを探して受講したりして、新しい職種を習熟しようとするが、それは給料が出ている事もあって生活がかかっていて必死である。

大学の講義も本来同じだ。

“将来の給料を獲得する為の専門技術”を教伝・受領するのが大学である。人生がかかっている。必死にならない訳にはいかないはずだ。しかし大望を抱いて入学したはずの諸君らが、やがてこの①と②の本質を見失ってアルバイトに勤しみ、家族までが”もっと遊べ”と言ってしまう。これは間違いである。「大学卒」の肩書さえあれば、将来は何とかなる、という考え方は既に”全入時代”となってしまって、意味が無くなってしまった。大学で、この場所で、どれだけの未来への情報を詰め込み、知見を拡張させる事ができるかが、次世代を生き残る術なのだ。

そんな真剣な受験生と御父兄をわれわれは歓迎する。
どんなに面倒くさくともたいへんでも”学びたい”学生に時間も手間も私たちは惜しまない。
未来の税金や年金を払う、この世界を背負って立つ、そんな人材を育てる事に我々は凄まじい義務感を抱いて大学で待っているのだ。

だから、これから大学を選択する諸君ら、そしてその御父兄にはくれぐれも御願いしたい。

“夢”とは”未来”とはいったい何なのかをしっかり見極め、その上で、就業・就職の為に、あるいは人類の発展と進化を目指す研究者となる為に、大学に入学してきて欲しい。

“なんとなく入学”しても良いが、入学したのなら一刻も早く、懸命に自身の目指すべき未来は何なのかを見つけ出して欲しい。大学はその為の施設であり、場所なのだ。決して高校の延長や、単位を稼いで大卒の肩書を獲ったり、友だちと遊んだりするだけのものではなく、さらには社会人へのモラトリアム(支払猶予期間)でさえなく、高校とはまったく目的は異なっていて、また就学メカニズムも異なっている、社会人実務の為の最後のファームであり、既に学生は社会人と同等に扱うべき前提の”大人の為の場所”でもあるのだ。

目的を失っている学生にはアルバイトに邁進し、稼いだ額を充実と錯覚するような者も稀にいる。人生で最初で最後のファームはそのように使うべきではない。

文科省がホスピタリティを上げるよう大学を指導し、大学が学習環境の向上を努力するのは、君たちへの人気取りやファストフードやホテルのようなサービスを実施する為ではない。ましてや大人たる諸君らに生活指導をする為でもない。君たちが夢にたどり着く強い競争力を持った、産業を支える強靭な人材となってもらう為には、この方法が効果的ではないかと一度決断したからだ。我々の好悪は関係無く、そして成果もまだ出てはいないが、すべては君たちが未来を創ると信じて大学は奮闘しているのだ。

研究者として、そして産業人として、諸君らの参戦を心から待っている。

了.