経営学部

ライン・プロデューサー大里俊博さん。

2015.02.25
 大里さんが亡くなった。
 昨日が通夜だった。
 大里俊博さん、何本も制作現場を御願いしたライン・プロデューサーだ。
 
 大里さんはこの映画業界で知らぬ人はいないというほどのライン編成の名手で、どんなに低予算の企画に対しても、リーズナブルな現場組成をしてくれることで有名だった。国内に留まらず、海外の撮影でも力を発揮した。人柄も温厚で皆に頼りにされていた。彼の下で制作部を担当したスタッフはほとんどが優秀なライン人材として育っていった。
 
 『infinity∞波の上の甲虫』と言う映画の時だ。いとうせいこう氏の有名小説が原作である。
 元々、監督の企画だったのだが監督には実績が無く、高額が予測される海外制作の内容の為、企画は暗礁に乗り上げていた。
 そんなときに企画書を読んだ大里さんが、
「くのちゃん、オレ、行ってくるわ」
「……ロケハン費用、まだ出せないんですよ……ムリです」
 と凹む私に、
「ジバラ、ジバラ」
 と言い残して単身、フィリピンはボラカイ島へロケーション・ハンティングに行ってしまった。暫くして大量のロケハン写真と共にオフィスに現れた。
 素晴らしい写真ばかり。
 物語のカギとなる“岩礁に築かれたマリア像の祠”が、美しく撮り上げられている。驚いて感謝し、そして経費計上も出来なかったことを申し訳なく感じ、謝罪した。
「いやー、元々いいゴルフ場があったんで行きたかっただけだよ。ホラ俺、ゴルフ大好きだし」
 と、照れ臭そうに謝罪をいなしてくれた。
 大里さんの写真の素晴らしさの御蔭で企画は通ることになる。
 もちろん写真だけの成果ではなかったろうが、実際に現地で当企画のために撮影された写真群は、プレゼンテーションにおいて大きく力を発揮した。
 見せる人、見せる人が、
「これ、現実の風景ですか!?」
 と、驚くほどの美しいロケーションだったのだ。
 クランクインまでの資金問題も難航し、これを片づけて、ようやく現地入りした時に、大里さんはマニラ迄迎えに来てくれた。
「撮れるね」「嬉しいね」
 何度も言っていた。何十本も撮ってきたベテランのはずなのに、ずっとソワソワし、子どものようにはしゃいでいた。
 島の現場で、ふたりでいろいろとロケ交渉で歩いた事も思い出す。
 ボッタクリを怒鳴ったり、現地の子供にジュースをおごってあげたりと、現地に溶け込むのが大里流だった。
 問題が起きても皆には「大丈夫、だいじょうぶ」と言い、裏では懸命に手当てに砕身する――そんな現場ガバナンスだった。
 現場で一緒だった間は夜毎、旧作の話をせがんだ。
 こんな話をしてくれた。
「最初の仮面ライダー(一九七一年)の現場でさあ、オレ、制作部の下っ端だったんだけどさあ、ある朝の撮影で、駅まで役者を制作車で迎えに行かなきゃいけなくてさあ、忙しくて劇用バイクが走る道路の砂利掃除をしなかったワケ、そしたらさあ、藤岡(現・藤岡弘、氏)が事故っちゃってさあ――」
「え!?――藤岡さんが事故ったのって大里さんのせいなの!?」
 同席していた脚本家も俳優も、一同皆びっくりだ。
「そう……あいつ、それで降板しちゃって、二号の登場になっちゃった……悪いことしたよお……」
「ライダーがシリーズになる原因作ったの、大里さんだったの!?」
 有名な話だが、初代仮面ライダーの主演俳優・藤岡弘氏は、撮影中のバイク事故で重傷を負って入院してしまった。すぐの復帰はムリだ。放映スケジュールが切迫する制作サイドは、ライダーが敵組織との戦いによって死に、新しいライダーを登場させることを企図したと言う。それを東映テレビ部のプロデューサー・平山亨さんが「ヒーローは絶対に死なない!」と猛反対し、藤岡さん演じる処の仮面ライダー一号・本郷猛は、敵組織の別プロジェクトを追うために海外へと渡った――と言う設定が生まれたという。それだけでなく、一号ライダーの任務を引き継いだライダー二号の設定がここに誕生した訳だ。昭和に九シリーズ、十一人のライダーを生み、最大視聴率30%超という大ヒットサーガは、この事故により誕生したのだ。
 その原因を作ったのが大里さんだったとは――。
 とまあ、本人的には恥ずかしい話も、聞く側にとっては、テキスト化されるはずの無い貴重な秘話であり、まるで業界知識の宝庫のようだった。
 今や巨匠となった三池崇史の新人の時の話や、参加した大作のウラ話など、いろんな話をしてくれた。本当に役に立った。
 実際の機材や人材の編成も、
「同じことばっかや、おっさんばっかがいつまでも現場にいたんじゃ、おもしろくないじゃん」
 と言い、新しい機材や新人に機会を与えることに心を砕いていた。
 低予算作品も高額作品も分け隔てなく愛してくれた。
 大里さんは演出部や美術部等、他パートと大ゲンカもする。
 必ずこう怒鳴った。
「映画撮ってんだろ!?」
 予算を超過させられない責任を持つ大里さんに、若いスタッフは欲しいモノを準備してくれないと不平不満を言う。そんなカタチから入る若いスタッフに遠慮無く怒鳴る。おカネが無いなら、いくらでも撮ることを工夫が出来るし、その工夫こそ技量なのだが、理想の画のイマジネーションが固着してしまった若いスタッフは、「泥棒してでも用意しろ」と横暴を言う。
「完成しないと公開できねえだろ!? ここでカネを使うと公開できないぞ! 工夫しろよ! いくらでも面白く撮れるじゃないか!?」
大里さんはいつも闘っていた。
私も新人と多く組んできたが、新人には幻滅することがあるのも現実だ。
『こうでないと撮れない。だからカネをくれ』と新人はよく言う。しかしこちらが「え? こうしたら撮れるよね? しかもこっちの方がカッコいいよね?」と差配すると「ああ! そんなやり方があるんですか!?」と驚く。
勉強不足なのだ。
北米の演出家もLAスタジオ育ちの大型作品監督は、なかなかコストマネジメントが難しいが、NYでゲリラ撮影に長けた監督たちは、キャメラサイズや移動、錯覚を上手に使ってリーズナブルに撮り上げ、しかも高い評価の作品が多い。要は工夫こそ才能なのだ。
 
それを開花させようと、大里さんは必死に怒鳴っていた。
 
通夜の席上、大里さんと一緒に『19』と言う作品の現場を手伝ってくれた御長男の快路くんが、
「ベッドでもずっと映画を撮る話をしてました――最期の言葉は“映画、あと二、三本撮りてえなあ”です」
 と教えてくれた。
喪主でもある快路くんの顔は、誇らしげだった。
 
大里さん、天国までのロードムービーを撮りましょう。
世界で初めてのやつ。
お清めの塩は使わないでおくので、いつでも夢で報告して下さい。
ロケハンはお任せします!