経営学部

希人伝 その二.【実相寺監督のこと】

2014.02.10

「公野さんは新人とばかりつき合いたがりますね」
よく言われる事だが、そう言えばもう習慣のようになっている。気がつけば、そうである。

この事に触れるためには、ロカルノ国際映画祭グランプリの日本人唯一の獲得者であり、数々のウルトラシリーズ名作を撮られた巨匠・実相寺昭雄監督との事を書かなければならないと思う。

監督と初めて御会いしたのは、いつの日の事だかもう定かではない。
おそらくは私が円谷プロダクションでプロダクション・マネージャーをしていた頃だろう。

ただその時の監督は雲上人というか、私にとっての有名人、尊敬しなければならない人、という感じで、畏まり過ぎて顔もろくに見れなかったのではないかと思う。

一方で「自分はこれから新しいコンテンツを創出する人間なんだ、昔からいるような巨匠になんか、興味無いぞ――!」などと気負っていたのも確かだ。

きちんと向き合ったのは、私がプロデューサーとして一本立ちしてからである。
監督の著作である『東京デカメロン』(一九九六)の映画化をする際に御挨拶した。しかし、その時はお弟子さんに監督させるという事もあり、製作元と制作会社の代表としての御挨拶だった(監督が社長をやられていた訳ではなかったが)。そのすぐ後、私が青山真治監督の『冷たい血』(一九九七)を東宝の砧撮影所で撮っていた時、実相寺監督が『ウルトラマンティガ』を東宝ビルト(東宝が経営する、砧にあった、かつての“東宝美術センター”。その当時の東宝ビルトである。現在は閉鎖され、宅地転換されている)で撮影している、と聞いた。砧撮影所とビルトは歩いて一五分くらいの距離だ。ひさしぶりの“実相寺ウルトラ”の現場を覗きたくて、ビルトに中抜けした。そうした処、美術デザイナーの池谷仙克さんと食事をされていて、弁当を下さった。しばらく経って、やはり違うお弟子さんが監督する『infinity∞波の上の甲虫』(二〇〇一)と言う作品の製作を私が行うことになり、今度は作品美術や資金繰り等の相談をしなければならない事もあり、ミーティングが続いた事で少しずつ巨匠の素顔に触れていった。奇人変人との評判の名高い監督だが、スタッフルームで話す監督はそんな風な印象も無く、巨匠風も吹かさない、むしろ製作元プロデューサーへいろいろと気を遣う、現場棟梁らしい振る舞いを心がけられていた。旧作の話をねだる私に、少し照れ臭そうにいろいろと話してくれていた。

忘れられないのは『ユメ十夜』(二〇〇六)である。
夏目漱石の有名短編集――十夜の漱石の夢記録を、一〇人の巨匠・新人・話題監督の混成チームにより一本ずつ短編を撮る、と言う無謀なオムニバス企画だった。この第一夜を監督に御願いしたのである。

実はこの作品の製作には深い事情があった。当時、私は老舗の映画会社の製作と配給担当の取締役に着任したばかりだったのだが、大会社的体質なのか、とにかく外部の企画に依存する癖と、高いコストに慣れきっていて、通期でも中期計画でも予算を意識しておらず、バランスシートどころか、PLもCFも知らないという有様だった。なのに「ヒット作が出ない」と不貞腐れている。まるでヒットとは宝くじのように考えていた。「コンテンツ企業としての価値を創出するには、タレント(才能)と自前ラインの整備」と言うのは私が円谷で習った“コンテンツ事業=兵站論”である。既に完成されたタレントに依存しても、そんなものは現金以外には仁義が無い。すぐに離れていく。その会社オリジナルの価値を創出しなければ、世間はその会社を必要としてくれない。私のその会社でのミッションはまさに自前ラインの確立だった。東北新社やサンライズ、スタジオジブリなど、ヒット作と独自のクリエイティビティによって経営を支えている制作会社群のすべての経営者がそれを知っている。
また映画とは配給力である。強い配給力があれば多少の作品のクオリティの多寡も押し返せる力となる。映画事業に置いて最も重要な兵站は配給力なのだ。実はその会社は配給力を担保する直営興行群(映画館チェーン)も持っていた。しかし「映画館よりも映画作品が大事」「観客より撮影所が大事」と、かつての東宝争議のような時代遅れの風潮が社内の大勢を占め、その貴重なインフラに誰も価値を置こうとしていなかったのである。まるで子どものようだった。
私自身は東宝を源流とする円谷一派のラインプロデューサー出身であったため、円谷系の「低コスト・最大成果」と言う制作ラインがソリューションでありインフラであった。それをその会社のオリジナルラインに供出しようと考えた。私の会社だ。大切な資産を投入するのは当たり前だ。
かくして“最短距離でのライン整備”のため、「1本で一〇倍美味しい」オムニバスであり、興行的には巨匠の力を借りるべく巨匠の食指が動く歴史名作を原作とし、孵化したばかりの新人たちを混成させ、会社の新人たちも大いに参加させると言う、手間もゲインも一〇倍の最重要企画となった。
その大切な作品の最初の短編、第一夜を実相寺昭雄に頼み込んだのである。
東宝撮影所のある砧の成城学園前の喫茶店で御願いし、そして快諾してくれた。
無論、夏目漱石原作と言う面白さからもあったろう。しかし弟子ふたりに初陣を飾らせてくれたプロデューサーへの仁義でもあったと思う。
「脚本をさ、久世光彦に頼もうと思ってさ」
監督は言った。久世光彦――『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』、向田邦子作品等、お茶の間ドラマの巨匠だ。監督と同じTBS出身の天才演出家である。
「?」
自分の演出作品ならいざ知らず、あの人が他人に脚本を書くのだろうか?と不思議そうな面持ちの私に、監督は続けて言った。
「TBSの同期なんだよ」
そうだとしても不思議な感じだった。片やテレビドラマで一世を風靡した天才演出家、片やヌーベルバーグの旗手とまで言われた、世界に冠たる国際映画祭で日本人で唯一グランプリを取った巨匠だ。折りが合うはずもない――そう思っていた。
衣装合わせの時である。私が衣裳部屋に入ると監督の怒鳴り声が聞こえる。どうやら監督の旧作のDVDの発売が決まっていたらしいのだが、そのジャケットがお気に召さなかったらしく、携帯電話でビデオグラム会社の担当を怒鳴りつけていたのだ。少々驚いて尋ねた。
「どしたの?」
すかさず主演の小泉今日子さんが、
「今朝、ここに私が入ってから、ずーっと怒ってますよ」
と教えてくれた。虫の居所が悪いらしい。監督はジャケットの色校を畳に叩きつけて携帯電
話を切ってしまった。私に気づくと、
「いやあ、あまりにもビデオ会社がヒドくってさ」
と言い訳しつつ、ようやく衣装合わせに入ってくれた。と、そんな空気の中、久世さんがやってきた。どうなることかと気を揉んだ。そうしたら――どう言う事であろうか、久世さんの顔を見るなり、監督は破顔一笑、
「やあ!」
「やあ、自分の時より早く書いちゃったよ。アレでいいかい?」
あんなに嬉しそうな監督の顔を見たのは後にも先にもこの時だけだ。
やがてふたりは衣装合わせも主演女優もほったらかし、齢相応の「身体の調子悪い自慢」を始めた。
「尿酸値が高くてさ!」
「オレもオレも! オレの方が高いよ!」
その談笑を眺めていてなんとなくわかってきた。かつてテレビの地位が低かった時代に、若い力で後発局というハンデを跳ね返し、視聴率でも内容でも金字塔を打ち立ててきたふたりだ。きっと戦友なのだ。ジャンルは違っても、同じ作品に参加するのもこれが初めてでも、ふたりはいつも同じ心で戦っていたのだろう。そんな気を置かないふたりの、開けっぴろげな時間だった。
小泉さんが、
「久世さんは衣装合わせの時はいっつも衣裳に興味が無い感じで、今回は演出が実相寺監督だからと思って安心してたのに、これですよー(笑)」
と苦笑している。しかし私にとってもとても楽しい衣装合わせとなった。
余談ながら私は学生時代、久世さんが主宰されていたドラマ制作会社の入社試験を受けた経験がある。最終面接で久世さんに私が好きだった『キツイ奴ら』と言うドラマの話をした時、とても喜んで下さった。内定を頂いたのだが、残念ながら私は円谷へ進む事を選択した。その時のことを御話すると「キミの筆記試験が一番だったんだよ。作文が良かったな、よく覚えてないけど」とリップサービスを下さった。

監督の撮影現場はさすが巨匠らしく、組(その監督のルーティンな撮影チーム)も慣れており、スムーズだった。場所はやはり、かつてウルトラシリーズで使用していた東宝ビルトである。私もこのスタジオで『電光超人グリッドマン』や『ウルトラセブン』のMD映像等を撮って育った。円谷育ちは皆、このスタジオが使い慣れていて、しっくりくる。
ただひとつ撮入前のオールスタッフ・ミーティングの時なのだが、監督はすこぶる機嫌が悪かった。ミーティングが進み、監督自らが技師さんたちを紹介し、直接、指示を出しているのだが、あろうことか重要な配給宣伝チームの紹介と取材の説明をトバしかけてしまった。慌てて私が割って入り、監督の代わりに紹介し、制作宣伝の撮影の御願いをする。しかし不機嫌そうだ。何か気に入らないことでもあるのかと、ちょっと気になった。
そんな事を余所に、撮影は極めて順調に進んだ。相変わらず、現場にいるスタッフは当事者でありながら何を撮っているのか判然としない撮影だ。天才・実相寺昭雄の真骨頂でもある。編集の段になって上がってきた映像素材を観、スタッフは初めてその画にどんな意味があるのか、監督が何を撮ろうとしていていたのかを知る。
撮影は終わった。

「第一夜」は完成したが、他の作品はまだ撮影中だった中、監督が新作を取る事になった。『シルバー假面』だ。かつて、TBSから独立したての時に挑んだ意欲作のリメイク企画。
やはり東宝ビルトで撮影との事で、監督が好きだと言っていた饅頭を駅前で買い、太田裕輝プロデューサーと久しぶりに陣中見舞に伺った。ところが一歩、ビルトのオープンセットに足を踏み入れた途端、いつもの滑らかな空気と言うか快調な雰囲気が、無い。いや、別に何か問題がある訳では無さそうだが何かスタッフ全員がピリピリしていて笑顔が無い。どうしたのか?
監督がオープンに組まれた美術の脇の空き地で椅子に座り、照明の牛場さんと何かを話している。
「監督、クランクインおめでとうございます――饅頭買ってきました!」
と近づいた――そして愕然とした。
顔が――監督の相貌が、抗癌剤使用者の特有のものだったからだ。絶句した。
「……ああ、ありがと」
監督はめんどくさそうにそれだけ言うと、シナリオに目を落とした。
衝撃を受けた私と太田プロデューサーは、そのままビルトの食堂に行き、今後の話をした。監督にもう一本だけでも撮らせたい――! 監督と関わった全スタッフの気持ちは間違いなくそこにあるだろう。何が出来るか、可能な限りの事をやろう、と約束した。

夢を見ていた。
FAXを送っている夢。何か大事なスケジュール表をFAXに突っ込み、必死にボタンを押すのだが、最後の数字を何度も押し間違える――そんな夢だ。私が焦っている時によく見る夢。送り先は実相寺監督の会社だ――と、突然FAXが鳴り出した! びっくりしてFAXの受話器を上げた――目が覚めた。私の携帯が枕元で鳴っていた。私はその当時、充電する時はいつも電源を落とす習慣だった。なのに鳴っている。
「?」
朝の四時三〇分頃。電話に出た。キャスティング・ディレクターの安藤実さんだった。私が制作の下っ端だった時からずっと面倒を見て下さっている円谷一派のスタッフである。
「監督が――実相寺さんがね、亡くなった」
目の前が真っ暗になった。
『間に合わなかった――!』そんな思いが心を支配した。

御葬儀が終わり、しばらく後、監督を悼む会が上野の東天紅で催された。入り口で、かつて監督が揮毫された、直筆の私の名札を頂いた。
『書いておいてくれたんだ――』
胸が熱くなった。今も大切に持っている。業界で言う“実相寺書体”、まさかこんな風に遺してくれていたとは思わなかった。
ホールにはそうそうたる面々が集まっており、各人のコメントを求めるマイクが回り始めた――毒蝮三太夫さんの時だ。
「ようやく死んでくれたね、あのクソジジイ!」
どっと会場は笑いに包まれた。
それ以降、かつてのウルトラの役者さんやTBSの方、ご家族が次々と明るい御話を続けられる。どんなに変態だったかとか、どんなにヘンな撮り方をされたかとか……さすが監督、破格である。本当に良い会だったと思う。
私は発言することは出来なかった。胸がいっぱいになっていて、ちょっとでも話すと泣いてしまいそうだったからだ。本当は皆に言いたかった。そんな六十年代、七十年代のかつての映像界の風雲児だという事だけではない、『帝都物語』以降、たくさんの若い才能を自分の現場に参加させてくれたこと、そしてその御蔭で我々のような新しい世代が、樋口真治や原口智生のような人材が、今は映像業界の真ん中に立っているということ――監督は私が関わった作品のように後進を育ててくれるような“優しさ”があった、だから、みんな監督を目指して頑張れたんだ、と。
天才・実相寺昭雄の超越ぶりはその映像技法にのみあるのではない。いずれの作品にもあった鮮烈さと優しさという、人間に対する愛と情が根幹にあったと思う。そしてそれは関わるすべての人に降り注いでいた。組のスタッフもお弟子さんたちも、だからつき従ったのだと思う。

監督のように何にも似ず、「0」から「1」を生むようなクリエイターが絶えて久しい。私自身が撮ってもどうしても監督の画に似てしまう。庵野秀明を初めとして多くの作家がその影響から脱せずにいる。正直、監督の功罪の罪の部分である。苦しい。しかし、こんな時代だからこそ、「0→1」を育てたい、生み出したいと切に思う。恐らく新人とつきあう事で、それが成し遂げられるのではないか?と無意識に思っているのだろう。それが私の中の実相寺昭雄に報いる事なのだ。

『ユメ十夜』の公開は監督が亡くなった翌年、二〇〇七年一月二七日。ちょうど七年前だ。公開遺作となってしまった。久世さんも公開の時には亡くなっていた。プロデューサーとしては忸怩たる思いの公開だ。しかし御蔭で劇場作品初という監督を数人起用できた。

監督、ありがとうございました。