公野研究室プレス

文京学院大学経営学部 公野研究室のブログ。

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新著刊行につきまして大学の方々、御支援頂いた方々への御礼、そして事情説明

2016年11月20日 [ カテゴリ:トピックス ]

今期、二冊の本を敢行させて頂いた。
“頂いた”というのはまさに刊行は周囲の皆さんの御蔭であり、
自身の能動的な努力の結果の刊行ではなかった、と言う意味での“頂いた”である。
 
一冊目は4月刊行の『コンテンツ製造論』。
いま一冊はこの11月に上梓した『白組読本』である。
 
両冊とも、インタビュイーの証言をベースに執筆してあるので、
実は自分の脳髄からすべてを出力したと言うよりは、
語り難い箇所を私が誘導する事で話して頂き、
インタビュイー方々のメソッドをまとめ直した、という内容に他ならない。
 
『コンテンツ製造論』はそれでも自身の理論を骨格とし、
各界の方々の話す経験談とロジックを傍証とさせて頂き、
理論をまとめあげたものとなっているのだが、
『白組読本』の方はまさにインタビュイーの方々が主役となっている。
私自身はその証言に対する“裏書きをする”という先著とは逆説的な構造となった。
 
ということで『白組読本』ではほとんどの作業が、
インタビュイーの収録データの文字起こしに終始したのだが、
私の作業と言えば、前述の“裏書き部分”だけであった。
しかしながら今期は夏に共同研究としての地方自治体の巨編映画の撮影、
そして秋は急遽、放置していた概論の紀要を提出しなければならなくなり、
また新規の映像プロジェクトをいくつも提案されるという、
入職以来、もっとも多忙煩雑な状態に陥ってしまっていた。
執筆の時間など無いかと思われた。
 
ここで突然、予想もしないことが起こった。
 
両親の認知症が判明したのだ。
 
昨年からどうにも様子がおかしかったのだが、
母が糖尿病治療のインシュリン注射の射ち忘れで昏倒、
救急車で運ばれてアルツハイマーが判明した。
介護する父にも同様の症状が現れた。
兄弟と交替で中国地方へと何度も帰省し、
ケアマネージャーや主治医と面談を重ね、
介護の手配や計画を策定せねばならなくなった。
日帰りの弾丸帰省とは言え、この行き帰りで図らずも時間が取れる事となった。
 
研究室を空けてしまい、校務、学務そのものに不安もあったのだが、
新幹線はもとより、最近は飛行機でもWiFi環境がある事で随分と助けられた。
しかし通信の出来ない環境も多く、そんな時は、
移動の1日で10時間近くは執筆に集中できた。これが奏功し、
自著の執筆と紀要を作成することができたのだ。
 
これはよく考えると親の御蔭である。
 
二十歳時分、志を抱いて故郷を後にした時、
こんな風に親が痛んでいくとは、まったく心の片隅にも思うことなどなかった。
「上京して東京で就職する自分」を疑わず、
故郷の父母がいつまでも別れた時の姿のままでいるような、
そんな浅はかな錯覚をしていたのだと思う。
実に浅はかだったと思う。
 
もうひとつ、これを機に書いておこうと思うことがある。
特に隠している事でもないので、きちんと書いておきたい。
 
私自身の入職の直後、かなりクリティカルな病気が判明した。
数年前から調子が悪く、長く原因が判然としなかったのだが、
その病根と治療がはっきりしたのだ。
その結果、週のうちかなりの時間を治療に専念しなければならない必要が出てしまった。
 
黙っている訳にもいかず、煩悶したが大学へ報告した。
しかし大学の経営の方々、同僚の方々の皆さんが温かく支援をすることを表明して下さった。
実に有り難かった。
特に固定の組織が長い訳でもなく、終身FAのような世界にいた私にとって、
そして家族にとって、涙が出るほど嬉しかったことを覚えている。
 
最初の数年は治療をしながら業務をこなすのが精いっぱいだったように思う。
だがたくさんの教職員の方々に支えて頂いた。
これも“人を育てる”という大学の思想故の温かさだったと思う。
御蔭で一番重たい治療の時期は過ぎ、
現在はようやく経過観察のタームに入る事が出来た。
 
元来、教育機関には門外漢であった私が、
それまでのコンテンツ製作のソリューションを以て、
教員に任じられるという二度目の人生に出逢えたのは、
すべて大学の御蔭でもある。実に深く幸甚に思う。
同時に病を得て現場を上がらざるを得なくなった自分できる事は何か?
と自問した時に、
「もう十分に映画は撮り切った。
 これを機に、長年積んだ功夫で後進育成に砕身しよう。
 それが私の星回りだ」
そう考え至る事が出来たのも大学と病の御蔭だったと思う。
日々、バトンを渡し続ける自身の姿を想像できたのだと思う。
 
そして今回の父母の罹病を機会に親の存在と向き合った。
 
改めてすべて周囲の御蔭だと気づかされた。
 
研究者でもない、オペレーターだった私が本を出版できたという僥倖。
毎日、研究室に“何か”を求めてやってくる学生諸君の情熱。
研究者として教育者としての自分に禄を食ませてくれる大学の心馳。
そして未だに私を育ててくれている父母という存在。
 
すべて皆さんの御蔭である。
 
天佑に深く感謝し、また明日から後進育成に励みたい。
 
皆様、ありがとうございます。

『GAMBA ガンバと仲間たち』

2015年10月 1日 [ カテゴリ:トピックス ]

どうも!
公野研究室5期生玉川です。
 
私は『GAMBA ガンバと仲間たち』の宣伝のお手伝いしています。
『GAMBAガンバと仲間たち』をご存知でしょうか?
原作は有名な児童文学『冒険者たち』。
 
都会の片隅で、楽しく暮らしていた町ネズミのガンバとマンプクは、
ある日、「世界で一番広くて大きいのは海」だと聞き、海を目指す旅に出る。
港で船乗りネズミたちに出会った夜、島ネズミの忠太に助けを求められ、
ガンバは白いイタチに襲われる島ネズミたちを助けようと決心する。
ボーボ、ヨイショ、ガクシャ、イカサマ、そして当然マンプクもガンバの心意気にひかれ、船に乗り込んだ。
いよいよはじまる大冒険。
ガンバと仲間たちはどうやって恐怖のノロイに立ち向かうのか!?
彼らの運命は……!?
 
『STAND BY ME ドラえもん』の白組が贈る、構想15年 総製作費20億円の超大作!!
 
 
公野研究室では、
指導教員の公野先生がプロデューサーを務めるこの作品で、
白組での宣伝会議やマーチャンダイジング、ワークショップの運営など、
普通の学生では経験の出来ない業務に参加させて頂いいます。
 
10月10日はいよいよ劇場公開。
楽日まで全力で頑張って行きたいと思います!
 
ぜひ見に来てくださいね!

ライン・プロデューサー大里俊博さん。

2015年2月25日 [ カテゴリ:トピックス ]

 大里さんが亡くなった。
 昨日が通夜だった。
 大里俊博さん、何本も制作現場を御願いしたライン・プロデューサーだ。
 
 大里さんはこの映画業界で知らぬ人はいないというほどのライン編成の名手で、どんなに低予算の企画に対しても、リーズナブルな現場組成をしてくれることで有名だった。国内に留まらず、海外の撮影でも力を発揮した。人柄も温厚で皆に頼りにされていた。彼の下で制作部を担当したスタッフはほとんどが優秀なライン人材として育っていった。
 
 『infinity∞波の上の甲虫』と言う映画の時だ。いとうせいこう氏の有名小説が原作である。
 元々、監督の企画だったのだが監督には実績が無く、高額が予測される海外制作の内容の為、企画は暗礁に乗り上げていた。
 そんなときに企画書を読んだ大里さんが、
「くのちゃん、オレ、行ってくるわ」
「……ロケハン費用、まだ出せないんですよ……ムリです」
 と凹む私に、
「ジバラ、ジバラ」
 と言い残して単身、フィリピンはボラカイ島へロケーション・ハンティングに行ってしまった。暫くして大量のロケハン写真と共にオフィスに現れた。
 素晴らしい写真ばかり。
 物語のカギとなる“岩礁に築かれたマリア像の祠”が、美しく撮り上げられている。驚いて感謝し、そして経費計上も出来なかったことを申し訳なく感じ、謝罪した。
「いやー、元々いいゴルフ場があったんで行きたかっただけだよ。ホラ俺、ゴルフ大好きだし」
 と、照れ臭そうに謝罪をいなしてくれた。
 大里さんの写真の素晴らしさの御蔭で企画は通ることになる。
 もちろん写真だけの成果ではなかったろうが、実際に現地で当企画のために撮影された写真群は、プレゼンテーションにおいて大きく力を発揮した。
 見せる人、見せる人が、
「これ、現実の風景ですか!?」
 と、驚くほどの美しいロケーションだったのだ。
 クランクインまでの資金問題も難航し、これを片づけて、ようやく現地入りした時に、大里さんはマニラ迄迎えに来てくれた。
「撮れるね」「嬉しいね」
 何度も言っていた。何十本も撮ってきたベテランのはずなのに、ずっとソワソワし、子どものようにはしゃいでいた。
 島の現場で、ふたりでいろいろとロケ交渉で歩いた事も思い出す。
 ボッタクリを怒鳴ったり、現地の子供にジュースをおごってあげたりと、現地に溶け込むのが大里流だった。
 問題が起きても皆には「大丈夫、だいじょうぶ」と言い、裏では懸命に手当てに砕身する――そんな現場ガバナンスだった。
 現場で一緒だった間は夜毎、旧作の話をせがんだ。
 こんな話をしてくれた。
「最初の仮面ライダー(一九七一年)の現場でさあ、オレ、制作部の下っ端だったんだけどさあ、ある朝の撮影で、駅まで役者を制作車で迎えに行かなきゃいけなくてさあ、忙しくて劇用バイクが走る道路の砂利掃除をしなかったワケ、そしたらさあ、藤岡(現・藤岡弘、氏)が事故っちゃってさあ――」
「え!?――藤岡さんが事故ったのって大里さんのせいなの!?」
 同席していた脚本家も俳優も、一同皆びっくりだ。
「そう……あいつ、それで降板しちゃって、二号の登場になっちゃった……悪いことしたよお……」
「ライダーがシリーズになる原因作ったの、大里さんだったの!?」
 有名な話だが、初代仮面ライダーの主演俳優・藤岡弘氏は、撮影中のバイク事故で重傷を負って入院してしまった。すぐの復帰はムリだ。放映スケジュールが切迫する制作サイドは、ライダーが敵組織との戦いによって死に、新しいライダーを登場させることを企図したと言う。それを東映テレビ部のプロデューサー・平山亨さんが「ヒーローは絶対に死なない!」と猛反対し、藤岡さん演じる処の仮面ライダー一号・本郷猛は、敵組織の別プロジェクトを追うために海外へと渡った――と言う設定が生まれたという。それだけでなく、一号ライダーの任務を引き継いだライダー二号の設定がここに誕生した訳だ。昭和に九シリーズ、十一人のライダーを生み、最大視聴率30%超という大ヒットサーガは、この事故により誕生したのだ。
 その原因を作ったのが大里さんだったとは――。
 とまあ、本人的には恥ずかしい話も、聞く側にとっては、テキスト化されるはずの無い貴重な秘話であり、まるで業界知識の宝庫のようだった。
 今や巨匠となった三池崇史の新人の時の話や、参加した大作のウラ話など、いろんな話をしてくれた。本当に役に立った。
 実際の機材や人材の編成も、
「同じことばっかや、おっさんばっかがいつまでも現場にいたんじゃ、おもしろくないじゃん」
 と言い、新しい機材や新人に機会を与えることに心を砕いていた。
 低予算作品も高額作品も分け隔てなく愛してくれた。
 大里さんは演出部や美術部等、他パートと大ゲンカもする。
 必ずこう怒鳴った。
「映画撮ってんだろ!?」
 予算を超過させられない責任を持つ大里さんに、若いスタッフは欲しいモノを準備してくれないと不平不満を言う。そんなカタチから入る若いスタッフに遠慮無く怒鳴る。おカネが無いなら、いくらでも撮ることを工夫が出来るし、その工夫こそ技量なのだが、理想の画のイマジネーションが固着してしまった若いスタッフは、「泥棒してでも用意しろ」と横暴を言う。
「完成しないと公開できねえだろ!? ここでカネを使うと公開できないぞ! 工夫しろよ! いくらでも面白く撮れるじゃないか!?」
大里さんはいつも闘っていた。
私も新人と多く組んできたが、新人には幻滅することがあるのも現実だ。
『こうでないと撮れない。だからカネをくれ』と新人はよく言う。しかしこちらが「え? こうしたら撮れるよね? しかもこっちの方がカッコいいよね?」と差配すると「ああ! そんなやり方があるんですか!?」と驚く。
勉強不足なのだ。
北米の演出家もLAスタジオ育ちの大型作品監督は、なかなかコストマネジメントが難しいが、NYでゲリラ撮影に長けた監督たちは、キャメラサイズや移動、錯覚を上手に使ってリーズナブルに撮り上げ、しかも高い評価の作品が多い。要は工夫こそ才能なのだ。
 
それを開花させようと、大里さんは必死に怒鳴っていた。
 
通夜の席上、大里さんと一緒に『19』と言う作品の現場を手伝ってくれた御長男の快路くんが、
「ベッドでもずっと映画を撮る話をしてました――最期の言葉は“映画、あと二、三本撮りてえなあ”です」
 と教えてくれた。
喪主でもある快路くんの顔は、誇らしげだった。
 
大里さん、天国までのロードムービーを撮りましょう。
世界で初めてのやつ。
お清めの塩は使わないでおくので、いつでも夢で報告して下さい。
ロケハンはお任せします!

黒子

2014年6月30日 [ カテゴリ:トピックス ]

告知です。

本来は黒子である立場の教員なのですが、本学を汎く知って頂くために、今ウワサのニコ生で教員紹介を受けることになりました。
以下、宜しく御願い致します。
 ↓

文京学院大学 経営学部コンテンツ・マーケティング専攻の顔である教授紹介第一弾!
今回の生放送では『劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール 幻影の覇者 ゾロアーク』『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』『劇場版デュエル・マスターズ 黒月の神帝』など数々の映像作品に製作参加されている公野勉教授が登場!
過去に製作参加、プロデュースされた作品のエピソードや、公野教授のゼミナールで企画から運営までを行っている『らき☆すた≒おん☆すて』『コードギアス 反逆のルルーシュ』などのアニメライブに関わるゼミ生の苦労話など盛りだくさんの1時間。
「プロデューサーになりたい!」「コンテンツ業界に潜り込みたい!」そんな人には必見のエピソードが満載です!

【出演】
・公野 勉 教授
( 映像プロデューサー / 文京学院大学 経営学部 特任教授 / コンテンツ多言語知財化センター 副センター長 )

黒尽くめ

2014年6月16日 [ カテゴリ:トピックス ]

映画のプロデューサーを専任で行っていた頃は、全身黒尽くめの風体だった。
「遠くからでも公野さんだとすぐわかる」と言われ、後で聞く目撃談も多かった。そんな黒尽くめの理由なのだが、実はいくつかある。
①現実的な理由
②流派
③好きだったもの
という感じだろうか。

①はカンタン。
コーディネートの必要が無いこと。上着とシャツ、ズボン等、色が違うと配色に気をつけなければならなくなる。これがけっこう面倒だ。けれどもいつも単色ならそんなことに悩む必要はない。買う時も悩む必要はない。それだけ。

②。
制作現場出身者はいずれも流派というか、特定の制作集団で学んで、その徒弟制度の中で育つ者が多かった。私もそうである。元々は映画会社の撮影所にいくつかの源流がある。ものすごく大雑把にいうと、今なら東宝流・東映流・松竹流・日活流くらいがかろうじて残っている感じ。それぞれがたくさんに分化し、プロダクションやプロデューサー、監督に連なっている。新劇のシステムをTVへ移植したNHKの制作モードを除けば、民放各社もいずれかのモードが源流になるだろう。
私の演出の師匠は石橋冠さんだ。『池中玄太80キロ』や『新宿鮫』、倉本聡作品等、幅広い作品性でNTVのドラマ黄金期を支えたテレビドラマ界の重鎮である。テレビ局の青田買いセミナーで三週間ほど御世話になったのがきっかけである。セミナーでは彼がテレビ演出家になった経緯や、具体的な演出技法、シナリオにおけるドラマツルギーの創出方法等を学んだ。いわゆる演出理論である。それが縁となり、その後、大学院在学時に日本テレビのドラマ班で助監督をやらせて頂くことになった。
その冠さんがいつも黒尽くめだった。冠さんは東宝の名匠・岡本喜八監督に師事し、監督邸で書生をされていたという。その時にいろいろな事を学んだらしい。
冠さんの作品初演出前夜のことだそうである。監督の部屋に「何か初陣に際して御言葉を」と教えを請いに行ったという。その時、監督より「演出家が現場に臨むに際し、重要なことは三つある」と言われたと言う。

ひとつ。必ず新しいことをひとつ行え。
ふたつ。現場では監督は絶対に悩むな。
みっつ。現場では大きな声で指示を出せ。

最初の言葉は監督の作品を観るに、なるほどと思わされる。東宝のもうひとりの天才・黒澤明を向こうに回し、どちらかと言うとA級大作(本来的に番組編成された、収益のための映画作品群)と言うよりも、Bライン(通期予算のキャッチアップだったり、企画・スタッフ発掘のためだったり、穴埋めのための編成作品群)から発してきた、変化球投手の印象の強い監督。予算も制限された中では、脚本上も演出上もアイデアが必要だ。岡本喜八の作品はいずれも“一発アイデア前提”の技巧系作品も多く、その点からも鬼才と称されている。それに倣ったのか、冠さんもいろいろな“初”に挑戦している。当時、スタジオ内でしか使用されていなかったビデオキャメラをロケーションに持ち出す(当時は巨大で重量も相当だった)、すべてのカットを望遠で撮る、タイトルテキストを長くしてみる――等々。これは確かに“喜八イズム”だ。

ふたつめ。これは現場経験者なら誰もが納得がいく。現場の責任者が悩めば、スタッフは皆不安になる。なかなか難しいことではあるが、“確信を持っている風”でどっしりと真ん中に座り、スタッフを安心させてコトを進めるのは、監督にとってとても重要なことなのだ。

みっつめ。
監督はふたつめを冠さんに話した後、しばらく考え込んだらしい。みっつめを思いつかなかったのかもしれない(ちなみに冠さんは、ヒトに説明するときは“ポイントは三つある”と必ず言うこと、とも言っていた。思いつかなくても“三つ”と言い、話しながら考えろと言っていたのを思い出した)。暫く経って、ようやくこう話されたとのことだ。しかしこれもまた演出者としては、現場の運行リーダーとしては、最も重要なことだ。
どういうことか?
つまり、その空間を支配するのは誰か?ということだ。会議やスポーツ、集団作業時にはその群れを率いる力が必要だ。
撮影現場にはいろいろな力学が作用する。有名俳優や大プロダクションのマネージャー、ベテランのキャメラマン、交渉して撮影現場を仕立てる製作担当――皆、自分の業務がうまくいくように“カマし”合って聞き訳が無く、そうしてその限定された空間と時間の支配力を持とうと競ってくる。監督としてはそれらを御し、自分の作品を撮り上げる事に貢献させるのが命題でなければならない。それら暴れ馬スタッフをグリップするため――戦場のような制作現場を支配するためには、大きな声が必要なのだ。『責任者はオレだ』――そう宣言しながら作品を撮るために、である。そう言えば喜八監督は、現場でも“座らない監督”として有名だった。いつも走り回り、いろいろなパートに指示を出していたのだろう。冠さんも御一緒させて頂いた現場では、プロデューサーにも関わらず走り回られていたのを思い出す。

こんな情報量だけではない、冠さんからはたくさんのことを学ばせてもらった。当時、付き合っていた彼女と一緒に麻布の御自宅に押し掛けたこともあったが、笑顔で迎えてくれたことを思い出す。今でも“演出”という意味で、あの時代ほど様々なことを脳内にインストールした時代は無いと思う。
間違いなく私の演出の師匠である。
生前の岡本監督に会った――見かけたことがある。歌舞伎町を歩かれていた監督にスレ違っただけなのだが、『あれ――岡本喜八監督だ!? 真っ黒だ』と思ったことを鮮烈に覚えている。「汚れが目立たない」という理由でいつも黒衣で過ごされていたそうだ。お弟子さんである冠さんも、その流派継承者としていつも真っ黒だ。
故に私も冠さんを敬い、一派を形成する意味で黒い装束なのである。

③。
映像の原体験、というのがある。誰しもあるだろう。“初めて観た映像コンテンツ”の記憶である。
私の場合は白黒動画のアニメーション『鉄人28号』(一九六三)である。現在のエイケンが作った、戦後でもかなり初期に当たる作品だ。私の生まれる前の作品なので、おそらくは夕方の再放送の時間帯に観たのだと思う。その物語には、大日本帝国の軍事技術で作られた人型兵器・鉄人28号が登場するのだが、鉄人は主人公ロボットとしてそれはもうめっぽう強かった。少年探偵・金田正太郎くんが操縦機を使って鉄人を操り、悪の巨大ロボット等が絡む不思議な事件を解決する。子どもたちは皆、鉄人が大好きだった。ある時、そんな無敵の鉄人の前に、まったく歯の立たない相手が現れた――それがブラックオックスだった。漆黒の巨大ロボット。何故か鉄人はオックスに近づくと力を失ってしまう。今でいうジャミング機能で操縦電波を妨害する能力を持ち、鉄人に匹敵する強力な体躯を持つオックス。鉄人はついにオックスに勝てなかった。私はその結末に『えーっ!? 鉄人勝てないの!?』と衝撃を受けたのだ。そんな子ども番組は初めてだった(と思う)。『オックス、ヤなやつだなあ!』と、友だち連中の中にいる、ケンカで勝てない奴に抱いてしまう負け犬の気持ちのような、憤懣やるかたない幼心でいたのである。
ところがである。ある時、また別の敵に鉄人が手こずっていた時の事。正太郎くんだったか、大塚署長だったかがオックスの事を思い出すのである。「そう言えばオックスは!?」「警視庁の倉庫に眠ってるぞ!(確かそんなセリフ)」等と言う会話の後、普段は鉄人のメンテナンスをやっているはずの敷島博士がカマボコ型トレーラーに載せたオックスを現場まで運んできた。

これが強い! 頼もしい! 今まで最大の敵だったオックスがなんとも嬉しい、鉄人のパートナーとなったのである。『北斗の拳』の武論尊先生の『強敵と書いて“友”と呼ぶ』というやつである。この事が私の最初の「映像ショック」だった。それ以来(たぶん三歳くらい)、私はオックスの虜である。二〇年くらい前に実写映画版の『鉄人28號』と言う企画を立て、脚本とデザインまで作ったのだが、単にオックスの雄姿を見たかった故なのかも知れない。

もうことつ、私が愛読し続けている作品がある。獣木野生氏の“PALM”シリーズ。物語の解説をすると長くなるので詳細は省くが、この作品に私は人生を学んだ。最初に読んだのが一二歳の時であるから、三十五年間も私の生き方の指針となっている劇画である。その敬愛する主人公が、また黒衣なのだ。

以上が私、公野の黒尽くめの(多い)理由である。
ちなみに最近多かった青いシャツには特に意味は無い。大学勤務が増えてきた折りに「講師らしくしないと」と考え、量販店で白シャツを大量購入しようとした時に売り切れていて、もう一度来店するのがメンドくさく、代わりにあった青シャツを買っただけである(もちろん青は好きな色なのだが)。

希人伝 その二.【実相寺監督のこと】

2014年2月10日 [ カテゴリ:トピックス ]

「公野さんは新人とばかりつき合いたがりますね」
よく言われる事だが、そう言えばもう習慣のようになっている。気がつけば、そうである。

この事に触れるためには、ロカルノ国際映画祭グランプリの日本人唯一の獲得者であり、数々のウルトラシリーズ名作を撮られた巨匠・実相寺昭雄監督との事を書かなければならないと思う。

監督と初めて御会いしたのは、いつの日の事だかもう定かではない。
おそらくは私が円谷プロダクションでプロダクション・マネージャーをしていた頃だろう。

ただその時の監督は雲上人というか、私にとっての有名人、尊敬しなければならない人、という感じで、畏まり過ぎて顔もろくに見れなかったのではないかと思う。

一方で「自分はこれから新しいコンテンツを創出する人間なんだ、昔からいるような巨匠になんか、興味無いぞ――!」などと気負っていたのも確かだ。

きちんと向き合ったのは、私がプロデューサーとして一本立ちしてからである。
監督の著作である『東京デカメロン』(一九九六)の映画化をする際に御挨拶した。しかし、その時はお弟子さんに監督させるという事もあり、製作元と制作会社の代表としての御挨拶だった(監督が社長をやられていた訳ではなかったが)。そのすぐ後、私が青山真治監督の『冷たい血』(一九九七)を東宝の砧撮影所で撮っていた時、実相寺監督が『ウルトラマンティガ』を東宝ビルト(東宝が経営する、砧にあった、かつての“東宝美術センター”。その当時の東宝ビルトである。現在は閉鎖され、宅地転換されている)で撮影している、と聞いた。砧撮影所とビルトは歩いて一五分くらいの距離だ。ひさしぶりの“実相寺ウルトラ”の現場を覗きたくて、ビルトに中抜けした。そうした処、美術デザイナーの池谷仙克さんと食事をされていて、弁当を下さった。しばらく経って、やはり違うお弟子さんが監督する『infinity∞波の上の甲虫』(二〇〇一)と言う作品の製作を私が行うことになり、今度は作品美術や資金繰り等の相談をしなければならない事もあり、ミーティングが続いた事で少しずつ巨匠の素顔に触れていった。奇人変人との評判の名高い監督だが、スタッフルームで話す監督はそんな風な印象も無く、巨匠風も吹かさない、むしろ製作元プロデューサーへいろいろと気を遣う、現場棟梁らしい振る舞いを心がけられていた。旧作の話をねだる私に、少し照れ臭そうにいろいろと話してくれていた。

忘れられないのは『ユメ十夜』(二〇〇六)である。
夏目漱石の有名短編集――十夜の漱石の夢記録を、一〇人の巨匠・新人・話題監督の混成チームにより一本ずつ短編を撮る、と言う無謀なオムニバス企画だった。この第一夜を監督に御願いしたのである。

実はこの作品の製作には深い事情があった。当時、私は老舗の映画会社の製作と配給担当の取締役に着任したばかりだったのだが、大会社的体質なのか、とにかく外部の企画に依存する癖と、高いコストに慣れきっていて、通期でも中期計画でも予算を意識しておらず、バランスシートどころか、PLもCFも知らないという有様だった。なのに「ヒット作が出ない」と不貞腐れている。まるでヒットとは宝くじのように考えていた。「コンテンツ企業としての価値を創出するには、タレント(才能)と自前ラインの整備」と言うのは私が円谷で習った“コンテンツ事業=兵站論”である。既に完成されたタレントに依存しても、そんなものは現金以外には仁義が無い。すぐに離れていく。その会社オリジナルの価値を創出しなければ、世間はその会社を必要としてくれない。私のその会社でのミッションはまさに自前ラインの確立だった。東北新社やサンライズ、スタジオジブリなど、ヒット作と独自のクリエイティビティによって経営を支えている制作会社群のすべての経営者がそれを知っている。
また映画とは配給力である。強い配給力があれば多少の作品のクオリティの多寡も押し返せる力となる。映画事業に置いて最も重要な兵站は配給力なのだ。実はその会社は配給力を担保する直営興行群(映画館チェーン)も持っていた。しかし「映画館よりも映画作品が大事」「観客より撮影所が大事」と、かつての東宝争議のような時代遅れの風潮が社内の大勢を占め、その貴重なインフラに誰も価値を置こうとしていなかったのである。まるで子どものようだった。
私自身は東宝を源流とする円谷一派のラインプロデューサー出身であったため、円谷系の「低コスト・最大成果」と言う制作ラインがソリューションでありインフラであった。それをその会社のオリジナルラインに供出しようと考えた。私の会社だ。大切な資産を投入するのは当たり前だ。
かくして“最短距離でのライン整備”のため、「1本で一〇倍美味しい」オムニバスであり、興行的には巨匠の力を借りるべく巨匠の食指が動く歴史名作を原作とし、孵化したばかりの新人たちを混成させ、会社の新人たちも大いに参加させると言う、手間もゲインも一〇倍の最重要企画となった。
その大切な作品の最初の短編、第一夜を実相寺昭雄に頼み込んだのである。
東宝撮影所のある砧の成城学園前の喫茶店で御願いし、そして快諾してくれた。
無論、夏目漱石原作と言う面白さからもあったろう。しかし弟子ふたりに初陣を飾らせてくれたプロデューサーへの仁義でもあったと思う。
「脚本をさ、久世光彦に頼もうと思ってさ」
監督は言った。久世光彦――『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』、向田邦子作品等、お茶の間ドラマの巨匠だ。監督と同じTBS出身の天才演出家である。
「?」
自分の演出作品ならいざ知らず、あの人が他人に脚本を書くのだろうか?と不思議そうな面持ちの私に、監督は続けて言った。
「TBSの同期なんだよ」
そうだとしても不思議な感じだった。片やテレビドラマで一世を風靡した天才演出家、片やヌーベルバーグの旗手とまで言われた、世界に冠たる国際映画祭で日本人で唯一グランプリを取った巨匠だ。折りが合うはずもない――そう思っていた。
衣装合わせの時である。私が衣裳部屋に入ると監督の怒鳴り声が聞こえる。どうやら監督の旧作のDVDの発売が決まっていたらしいのだが、そのジャケットがお気に召さなかったらしく、携帯電話でビデオグラム会社の担当を怒鳴りつけていたのだ。少々驚いて尋ねた。
「どしたの?」
すかさず主演の小泉今日子さんが、
「今朝、ここに私が入ってから、ずーっと怒ってますよ」
と教えてくれた。虫の居所が悪いらしい。監督はジャケットの色校を畳に叩きつけて携帯電話を切ってしまった。私に気づくと、
「いやあ、あまりにもビデオ会社がヒドくってさ」
と言い訳しつつ、ようやく衣装合わせに入ってくれた。と、そんな空気の中、久世さんがやってきた。どうなることかと気を揉んだ。そうしたら――どう言う事であろうか、久世さんの顔を見るなり、監督は破顔一笑、
「やあ!」
「やあ、自分の時より早く書いちゃったよ。アレでいいかい?」
あんなに嬉しそうな監督の顔を見たのは後にも先にもこの時だけだ。
やがてふたりは衣装合わせも主演女優もほったらかし、齢相応の「身体の調子悪い自慢」を始めた。
「尿酸値が高くてさ!」
「オレもオレも! オレの方が高いよ!」
その談笑を眺めていてなんとなくわかってきた。かつてテレビの地位が低かった時代に、若い力で後発局というハンデを跳ね返し、視聴率でも内容でも金字塔を打ち立ててきたふたりだ。きっと戦友なのだ。ジャンルは違っても、同じ作品に参加するのもこれが初めてでも、ふたりはいつも同じ心で戦っていたのだろう。そんな気を置かないふたりの、開けっぴろげな時間だった。
小泉さんが、
「久世さんは衣装合わせの時はいっつも衣裳に興味が無い感じで、今回は演出が実相寺監督だからと思って安心してたのに、これですよー(笑)」
と苦笑している。しかし私にとってもとても楽しい衣装合わせとなった。
余談ながら私は学生時代、久世さんが主宰されていたドラマ制作会社の入社試験を受けた経験がある。最終面接で久世さんに私が好きだった『キツイ奴ら』と言うドラマの話をした時、とても喜んで下さった。内定を頂いたのだが、残念ながら私は円谷へ進む事を選択した。その時のことを御話すると「キミの筆記試験が一番だったんだよ。作文が良かったな、よく覚えてないけど」とリップサービスを下さった。

監督の撮影現場はさすが巨匠らしく、組(その監督のルーティンな撮影チーム)も慣れており、スムーズだった。場所はやはり、かつてウルトラシリーズで使用していた東宝ビルトである。私もこのスタジオで『電光超人グリッドマン』や『ウルトラセブン』のMD映像等を撮って育った。円谷育ちは皆、このスタジオが使い慣れていて、しっくりくる。
ただひとつ撮入前のオールスタッフ・ミーティングの時なのだが、監督はすこぶる機嫌が悪かった。ミーティングが進み、監督自らが技師さんたちを紹介し、直接、指示を出しているのだが、あろうことか重要な配給宣伝チームの紹介と取材の説明をトバしかけてしまった。慌てて私が割って入り、監督の代わりに紹介し、制作宣伝の撮影の御願いをする。しかし不機嫌そうだ。何か気に入らないことでもあるのかと、ちょっと気になった。
そんな事を余所に、撮影は極めて順調に進んだ。相変わらず、現場にいるスタッフは当事者でありながら何を撮っているのか判然としない撮影だ。天才・実相寺昭雄の真骨頂でもある。編集の段になって上がってきた映像素材を観、スタッフは初めてその画にどんな意味があるのか、監督が何を撮ろうとしていていたのかを知る。
撮影は終わった。

「第一夜」は完成したが、他の作品はまだ撮影中だった中、監督が新作を取る事になった。『シルバー假面』だ。かつて、TBSから独立したての時に挑んだ意欲作のリメイク企画。
やはり東宝ビルトで撮影との事で、監督が好きだと言っていた饅頭を駅前で買い、太田裕輝プロデューサーと久しぶりに陣中見舞に伺った。ところが一歩、ビルトのオープンセットに足を踏み入れた途端、いつもの滑らかな空気と言うか快調な雰囲気が、無い。いや、別に何か問題がある訳では無さそうだが何かスタッフ全員がピリピリしていて笑顔が無い。どうしたのか?
監督がオープンに組まれた美術の脇の空き地で椅子に座り、照明の牛場さんと何かを話している。
「監督、クランクインおめでとうございます――饅頭買ってきました!」
と近づいた――そして愕然とした。
顔が――監督の相貌が、抗癌剤使用者の特有のものだったからだ。絶句した。
「……ああ、ありがと」
監督はめんどくさそうにそれだけ言うと、シナリオに目を落とした。
衝撃を受けた私と太田プロデューサーは、そのままビルトの食堂に行き、今後の話をした。監督にもう一本だけでも撮らせたい――! 監督と関わった全スタッフの気持ちは間違いなくそこにあるだろう。何が出来るか、可能な限りの事をやろう、と約束した。

夢を見ていた。
FAXを送っている夢。何か大事なスケジュール表をFAXに突っ込み、必死にボタンを押すのだが、最後の数字を何度も押し間違える――そんな夢だ。私が焦っている時によく見る夢。送り先は実相寺監督の会社だ――と、突然FAXが鳴り出した! びっくりしてFAXの受話器を上げた――目が覚めた。私の携帯が枕元で鳴っていた。私はその当時、充電する時はいつも電源を落とす習慣だった。なのに鳴っている。
「?」
朝の四時三〇分頃。電話に出た。キャスティング・ディレクターの安藤実さんだった。私が制作の下っ端だった時からずっと面倒を見て下さっている円谷一派のスタッフである。
「監督が――実相寺さんがね、亡くなった」
目の前が真っ暗になった。
『間に合わなかった――!』そんな思いが心を支配した。

御葬儀が終わり、しばらく後、監督を悼む会が上野の東天紅で催された。入り口で、かつて監督が揮毫された、直筆の私の名札を頂いた。
『書いておいてくれたんだ――』
胸が熱くなった。今も大切に持っている。業界で言う“実相寺書体”、まさかこんな風に遺してくれていたとは思わなかった。
ホールにはそうそうたる面々が集まっており、各人のコメントを求めるマイクが回り始めた――毒蝮三太夫さんの時だ。
「ようやく死んでくれたね、あのクソジジイ!」
どっと会場は笑いに包まれた。
それ以降、かつてのウルトラの役者さんやTBSの方、ご家族が次々と明るい御話を続けられる。どんなに変態だったかとか、どんなにヘンな撮り方をされたかとか……さすが監督、破格である。本当に良い会だったと思う。
私は発言することは出来なかった。胸がいっぱいになっていて、ちょっとでも話すと泣いてしまいそうだったからだ。本当は皆に言いたかった。そんな六十年代、七十年代のかつての映像界の風雲児だという事だけではない、『帝都物語』以降、たくさんの若い才能を自分の現場に参加させてくれたこと、そしてその御蔭で我々のような新しい世代が、樋口真治や原口智生のような人材が、今は映像業界の真ん中に立っているということ――監督は私が関わった作品のように後進を育ててくれるような“優しさ”があった、だから、みんな監督を目指して頑張れたんだ、と。
天才・実相寺昭雄の超越ぶりはその映像技法にのみあるのではない。いずれの作品にもあった鮮烈さと優しさという、人間に対する愛と情が根幹にあったと思う。そしてそれは関わるすべての人に降り注いでいた。組のスタッフもお弟子さんたちも、だからつき従ったのだと思う。

監督のように何にも似ず、「0」から「1」を生むようなクリエイターが絶えて久しい。私自身が撮ってもどうしても監督の画に似てしまう。庵野秀明を初めとして多くの作家がその影響から脱せずにいる。正直、監督の功罪の罪の部分である。苦しい。しかし、こんな時代だからこそ、「0→1」を育てたい、生み出したいと切に思う。恐らく新人とつきあう事で、それが成し遂げられるのではないか?と無意識に思っているのだろう。それが私の中の実相寺昭雄に報いる事なのだ。

『ユメ十夜』の公開は監督が亡くなった翌年、二〇〇七年一月二七日。ちょうど七年前だ。公開遺作となってしまった。久世さんも公開の時には亡くなっていた。プロデューサーとしては忸怩たる思いの公開だ。しかし御蔭で劇場作品初という監督を数人起用できた。

監督、ありがとうございました。

希人伝 その一.【浜野先生のこと】

2014年2月 3日 [ カテゴリ:トピックス ]

東京大学大学院情報学環にコンテンツ創造科学産学連携教育プログラムがあった2005年頃、講師として御声掛け下さったのが浜野先生だ。礼を尽くして頂いて特任准教授として迎えて下さった。


浜野先生とは以前、経済産業省の放送技術審議会で私が世界で最初に全編をHD-camで撮影をした映画プロデューサーとして招聘された時に出会っていた。こう書いてしまうと得意げにも読めてしまうが、保守的なフィルム映画業界の中で、これはリノベーションではなく産業構造破壊の暴挙だと捉えられていて、実は当時はとても苦労していた。もともとはジョージ・ルーカスとSONYが開発したものだったが、インフラ更新を前提とする新技術の登場に、配給・興行を始めとする既存団体は恐怖心を持っていた(ルーカス自身も全編撮影は控えていた)。その集団の中に突如、呼び出しを受けたのである。


若さもあったが、そのメリットの方が高いという自信もあった。多少の喧嘩も覚悟で会議に臨む。
会議の冒頭、私が件の反逆プロデューサー(?)と知った浜野先生がツカツカと近づいてきた。思わず身構えた私に先生は笑顔でこう言ったのだった。
「あれ(HD-camのこと)、青色キレイだよね!」
一瞬、何のことたか解らない私に先生は続ける。
「あれだけ青がクリアだと合成し易いよね、ずいぶんコスト圧縮になるでしょ? うん」
ようやくそれがHD-camのことだと解った。浜野先生は特撮合成というか、デジタルのコンポジット処理の事を言っておられた。デジタルの合成では、ブルーやグリーンの部分をデジタル的に選択、マスク処理して、別々に撮影したものを合成する技法がある。HD-camはその点にプライオリティがある、と見抜いておられたのだ。HD-camは現在ではほとんどすべての映画撮影チームが使用するようになった。もちろんDigital to Digitalである事の技術的優位性のみならず、配給においても今では当たり前のデータ配給等、フィルムでは問題となっていた重量と運送費の問題、劣化に対する保存管理費用、さらにDVDパッケージ等の商品化原価の点で大規模な圧縮を実現している。HD-camは現場とビジネスの両方に貢献する技術だった。しかし、当時はそれを口にすると既得権益者を刺激する事にもなり、立場のある人ほどこの問題に対して口をつぐんでいた。作品の上映に際しては私もずいぶんと圧力を受けた。それを先生は明け透けに発言し、あまつさえ褒めて下さったのだ。
その新しい技術や知識に対する意欲や分析力に驚いた。また一方で権威の集団の議長的立場にあって、得体のしれない技術を使う新人に遠慮なく話しかける、気さくな人柄にも驚かされた。
御蔭で場は和み、スムーズに新技術の実地成果を報告することが出来たことを覚えている。
その時の事を覚えておられたのだろう。
「コンテンツの人材育成に技術とビジネスの両方が必要だ」と言う事で私を思い出して下さり、教育プログラムに呼んでくれたのだ。私は先生の課目後任として映画産業論を御引き受けした。


プログラム参加以降はさらに縁が深くなった。まだきちんと立ち上げられてはいないが「コンテンツ・プロデューサー協会・学会」を提唱下さり、実業と学術の架け橋を意識し始めた私には、とても心強い存在だった。


研究室にぶらりと遊びに行くと、思わず「なんで先生がそれ持ってるんですか!?」と言ってしまうような、ここには書けない色々な珍しい資料を見せてくれたり、若い時分に交流したという巨匠たちの、やはり書けないような話をたくさん聞かせて頂いた。本当に楽しかった。
興味のある方は是非、先生の著作を読んで頂きたい。いずれも時代には早い、慧眼とも言える先駆的な捉え方や論証が、実証的に語られているものが多いのが特徴である。
黒澤明監督や小津安二郎監督の研究者として本も出されているが、黒澤組や木下恵介監督組にも現場スタッフとして参加されている。本当に実証的な方だ。また私の読んだ処、キューブリックについての研究本が数ある中で、きちんと技術面からアプローチした内容となっているのは先生のものだけだと思う。作品論からだけではなく、その時代における技術論を「まったく新しいものを創出している」と、きちんと評価している。新しいものに優しく、理解をし、育てようとするのが研究者・浜野保樹なのだ。


そんな浜野先生が亡くなった。
二〇一四年になったばかりの一月三日、六十二歳だった。


欺瞞と権威と似非、独り占めと新人いじめの多いコンテンツ産業界にあって、実に真摯に、新しいものを見つけると声を大きくして皆に報せる、風に吹き飛ばされそうな芽を手で覆い、そっと水をくれる――そんな方だった。
先生に感謝しているクリエイターや研究者は数えられないほどだ。


この国のコンテンツ政策も速度を落としてしまう可能性が高い。
そうならないようにしなければと思う。


黙祷。

『瞬間少女』楽日

2013年9月13日 [ カテゴリ:トピックス ]

本日『瞬間少女』が楽日となりました。
大勢のお客様たちに映画を見て頂き、感動の声も届き、研究室スタッフも「これが興行なのか!」とフィールドワークの醍醐味を味わった2週間となりました。
御指導頂いた興行会社様にも重ねて感謝です。大学の支援の方々の多く来場頂きました。御礼申し上げます。

作品は御蔭様でいろいろなメディアに取り上げて頂きました。
日経新聞、NoTV、WOWOW等々大型メディアでの取材に、マーケティング担当のスタッフたちも正装で臨みました。

今後も研究室では「作るだけでなくマーケティングとリテールを体感する」ことをモットーとして、社会人同様の責任とモラルの中でコンテンツを経験していく予定です。
先述のアニメライブも同様ですが、「観ているだけだと楽しい。しかしそれを顧客に届けることはもっと楽しい(タイヘンだけど)」という商品がコンテンツです。
産業とは、企画を立て、ファイナンスし、製造し、流通させ、小売りする――これがすべてであり、さらに顧客満足度を上げるためのホスピタリティを伴って完結し、次の商品へと継続して拡大していくことを目指すものです。

この夏もスタッフが一丸となって来年公開を目指す映画の撮影を行いました。
プロダクションノートはまたいずれ。お楽しみに。

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