研究室研究・活動をご紹介していきます。
大学へ入る君たち、そして御家族へ
年末年始に4年生や卒業生、修了生と、電話やリモートで結構話す機会があった。
最近は個人SNSの方を主体に書いていたのだけども、
大学生諸君、受験生諸君らの将来にかかる話なので、
この教員用の公式ブログに書こうと思う。
まず、コロナ禍で4年は就活にかなり苦戦した。まだまだ戦っている者もいる。これは決して偏差値勝負ではなく、経験やフィールドワーク主体に体力を上げる方針のうちの大学では珍しい事ではなく、例年、「面接では体験や実務をセールスポイントにしなさい」と言うように指導をしている。単に見聞きした情報的学問よりも、"他者の知りえない、オリジナルの体験"こそが面接では強いという事は社会人ならば誰もが知る処だ。面接をする側も"実体験とそこから学んで発した言葉"は、実体験故に簡単には否定できないからだ。ただやはり、苦戦はする。「うまく体験を話せなかった」等の愚痴を多く聞かされたが、これは実は「体験から得た自分の成長を伝えられなかった」という、面接テクニック上、ES作成上の彼らのミスでもある。
一方で卒業生・修了生たちはどうか。
やはり仕事で苦戦をしているのだが、その悩みは4年生とは少し異なっている。
「先生があれだけイヤがっていたボクたちに『いいからやっとけ。必ず役に立つ』って言ってた理由が本当によく判りました」
「先生が言ってたのはこういう事だったんですね。言われた通りでした」
等と、"今更ながら理解した"的な発言は、まあそれこそ毎年のテンプレなのだけれども、彼らには実はその先がある。
「他大の同期も似たような実務体験を武器に入社してるんですけど、ヤツらがスゴいのって中学や高校の頃からこの仕事目指してコンテンツ創ったりしてたんですよね。それで大学に入ると同時にプロの現場へ飛び込んだりしてるんですよ。ボクらは早くても2年になってからか、せいぜい公野ゼミに入った1年生の年末くらいから。そんなヤツらに適うワケないじゃないですか」
......。
「......君は高校時代はなりたいもの無かったんだっけか」
「先生、そんなの大学に入ってから探すか、探す為に大学に入るもんなんですよ」
ほう。いや、待て、待て。
大学はいろいろと学生に対するホスピタリティを上げてきている。私自身が大学生だった時分と比べると、素泊まりユースホステルと五つ星ホテル並みの違いだ。いや、まったく大げさではなく。当時の教務など、こちらが退学しようが落第しようが何も関知しないし、規定時間が1秒でも過ぎると窓口はガラガラぴっしゃん!てなものだった。当たり前と言えば当たり前である。社会に出たらこんな厳しさ処ではない。
そこでちょっと気づいた。
かつて大学は中高の延長にある、義務教育的な社会常識を教える場では無いだけではなく、生活を指導をしたり将来の夢を見つけさせたりする為の場所でもなかった。
少し語弊があるかな。
夢への地図を書く場所ではあるが、夢が何なのかを教える場所ではなかった、という事だ。夢そのものは誰のものでもない。自身が夢だと決めるものだからだ。そこだけはいくら大学でも、他人には教えられない。
我々の世代は、入学時に将来になりたいものが無ければ恥ずかしかった。少なくともいくつかのゴール(職種・職能)を設定して入学したり、在学中に選択肢を増やしたり絞ったりしながら、専門知識を学ぶ事でフォーカス、選択していくのが大学生活だった。
元々が「〇〇になりたい。その為にはどの大学のどの学部に入らなければならないか?」を高校時代に検証して選択し、入試を迎えるのが当たり前だったのだ。間違っても「担任に『ここにしとけ』って言われたんで」とか「親に『大学ぐらい行っとけ』って言われたんで」と言うような身震いするほど恥ずかしい動機や事由は我々世代には存在していなかった。
『価値観の変遷』――いや、もはや『変転』だ。
時代の進む速度は早くて恐ろしい。もちろん諸君らが悪い訳ではない。我々を含めた先人たちでそんな時代にしてしまったのだ。
つまりその頃の大学とは"①目標とする職業を得る為に学修する場所"であり、"②なりたい職業の為にその職業の専門知識を得る場所"であり、さらに学友や社会体験を通じて"➂人生の為の知見を広める場所"だった訳だ。仮に➂しかなかったとしても、それが①や②に連ならなければ、大学の意味はない。
ただ3年生に最近、こんな事を言われた事があった。
「父から"お前に楽しんでもらう為に大学に行かせたのに、そんなにタイヘンなら辞めなさい"と言われた」
という話だった。コロナ禍での課題の多さの所為で大学を辞めるという話なのかと思いきや、インターンやアルバイト先での仕事が大変ならそのインターンやアルバイトを辞めなさい、というものだった。
「お父様はさ、君にどんな学生生活を送って欲しいと思ってるのかな?」
思わず尋ねた処、
「父の時代は学生時代遊びまくっていたそうです。私にも楽しんで欲しいって」
「......」
確かにわれわれ世代はバブル期で、家庭にもお金はあったし、アルバイト代も高額で、夏は南の島、冬はスキーと遊んだものだった。➂の特定方向への自己解釈である。確かにそうする事で知見もネットワークも広がっていた。
うむう。
われわれ大学教員の第一義とは、諸君らの①と②に貢献する事だ。我々は義務教育や高校のように専門的に担任型の教育や生活指導をするような研修は受けてなどいない。例えば私なら、コンテンツの製造技法や知的財産権の運用が専門の研究領域であり、具体的にその製造方法を講義し、産業就業時に専門知識となる知財法務の運用方法を講義している。つまり特定領域の専門家である。
その領域のエキスパートとして立脚し、その具体的・理論的技術や概念・商習慣等を、われわれの苦心した貴重な研究成果の中から、学費の対価として、諸君らだけにお伝えしているのである。
社会人ならば、例えば会社員が「異動で宣伝部門から部材調達部門に移ったので、部材の調達流通や契約を学ばなければならない」というようなケースが普通に起きる。そんな時、研修を受けたり、自腹ででも教本を購入したりセミナーを探して受講したりして、新しい職種を習熟しようとするが、それは給料が出ている事もあって生活がかかっていて必死である。
大学の講義も本来同じだ。
"将来の給料を獲得する為の専門技術"を教伝・受領するのが大学である。人生がかかっている。必死にならない訳にはいかないはずだ。しかし大望を抱いて入学したはずの諸君らが、やがてこの①と②の本質を見失ってアルバイトに勤しみ、家族までが"もっと遊べ"と言ってしまう。これは間違いである。「大学卒」の肩書さえあれば、将来は何とかなる、という考え方は既に"全入時代"となってしまって、意味が無くなってしまった。大学で、この場所で、どれだけの未来への情報を詰め込み、知見を拡張させる事ができるかが、次世代を生き残る術なのだ。
そんな真剣な受験生と御父兄をわれわれは歓迎する。
どんなに面倒くさくともたいへんでも"学びたい"学生に時間も手間も私たちは惜しまない。
未来の税金や年金を払う、この世界を背負って立つ、そんな人材を育てる事に我々は凄まじい義務感を抱いて大学で待っているのだ。
だから、これから大学を選択する諸君ら、そしてその御父兄にはくれぐれも御願いしたい。
"夢"とは"未来"とはいったい何なのかをしっかり見極め、その上で、就業・就職の為に、あるいは人類の発展と進化を目指す研究者となる為に、大学に入学してきて欲しい。
"なんとなく入学"しても良いが、入学したのなら一刻も早く、懸命に自身の目指すべき未来は何なのかを見つけ出して欲しい。大学はその為の施設であり、場所なのだ。決して高校の延長や、単位を稼いで大卒の肩書を獲ったり、友だちと遊んだりするだけのものではなく、さらには社会人へのモラトリアム(支払猶予期間)でさえなく、高校とはまったく目的は異なっていて、また就学メカニズムも異なっている、社会人実務の為の最後のファームであり、既に学生は社会人と同等に扱うべき前提の"大人の為の場所"でもあるのだ。
目的を失っている学生にはアルバイトに邁進し、稼いだ額を充実と錯覚するような者も稀にいる。人生で最初で最後のファームはそのように使うべきではない。
文科省がホスピタリティを上げるよう大学を指導し、大学が学習環境の向上を努力するのは、君たちへの人気取りやファストフードやホテルのようなサービスを実施する為ではない。ましてや大人たる諸君らに生活指導をする為でもない。君たちが夢にたどり着く強い競争力を持った、産業を支える強靭な人材となってもらう為には、この方法が効果的ではないかと一度決断したからだ。我々の好悪は関係無く、そして成果もまだ出てはいないが、すべては君たちが未来を創ると信じて大学は奮闘しているのだ。
研究者として、そして産業人として、諸君らの参戦を心から待っている。
了.

新著刊行につきまして大学の方々、御支援頂いた方々への御礼、そして事情説明

『GAMBA ガンバと仲間たち』

ライン・プロデューサー大里俊博さん。

黒子
告知です。
本来は黒子である立場の教員なのですが、本学を汎く知って頂くために、今ウワサのニコ生で教員紹介を受けることになりました。
以下、宜しく御願い致します。
↓
文京学院大学 経営学部コンテンツ・マーケティング専攻の顔である教授紹介第一弾!
今回の生放送では『劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール 幻影の覇者 ゾロアーク』『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』『劇場版デュエル・マスターズ 黒月の神帝』など数々の映像作品に製作参加されている公野勉教授が登場!
過去に製作参加、プロデュースされた作品のエピソードや、公野教授のゼミナールで企画から運営までを行っている『らき☆すた≒おん☆すて』『コードギアス 反逆のルルーシュ』などのアニメライブに関わるゼミ生の苦労話など盛りだくさんの1時間。
「プロデューサーになりたい!」「コンテンツ業界に潜り込みたい!」そんな人には必見のエピソードが満載です!
【出演】
・公野 勉 教授
( 映像プロデューサー / 文京学院大学 経営学部 特任教授 / コンテンツ多言語知財化センター 副センター長 )

黒尽くめ
映画のプロデューサーを専任で行っていた頃は、全身黒尽くめの風体だった。
「遠くからでも公野さんだとすぐわかる」と言われ、後で聞く目撃談も多かった。そんな黒尽くめの理由なのだが、実はいくつかある。
①現実的な理由
②流派
③好きだったもの
という感じだろうか。
①はカンタン。
コーディネートの必要が無いこと。上着とシャツ、ズボン等、色が違うと配色に気をつけなければならなくなる。これがけっこう面倒だ。けれどもいつも単色ならそんなことに悩む必要はない。買う時も悩む必要はない。それだけ。
②。
制作現場出身者はいずれも流派というか、特定の制作集団で学んで、その徒弟制度の中で育つ者が多かった。私もそうである。元々は映画会社の撮影所にいくつかの源流がある。ものすごく大雑把にいうと、今なら東宝流・東映流・松竹流・日活流くらいがかろうじて残っている感じ。それぞれがたくさんに分化し、プロダクションやプロデューサー、監督に連なっている。新劇のシステムをTVへ移植したNHKの制作モードを除けば、民放各社もいずれかのモードが源流になるだろう。
私の演出の師匠は石橋冠さんだ。『池中玄太80キロ』や『新宿鮫』、倉本聡作品等、幅広い作品性でNTVのドラマ黄金期を支えたテレビドラマ界の重鎮である。テレビ局の青田買いセミナーで三週間ほど御世話になったのがきっかけである。セミナーでは彼がテレビ演出家になった経緯や、具体的な演出技法、シナリオにおけるドラマツルギーの創出方法等を学んだ。いわゆる演出理論である。それが縁となり、その後、大学院在学時に日本テレビのドラマ班で助監督をやらせて頂くことになった。
その冠さんがいつも黒尽くめだった。冠さんは東宝の名匠・岡本喜八監督に師事し、監督邸で書生をされていたという。その時にいろいろな事を学んだらしい。
冠さんの作品初演出前夜のことだそうである。監督の部屋に「何か初陣に際して御言葉を」と教えを請いに行ったという。その時、監督より「演出家が現場に臨むに際し、重要なことは三つある」と言われたと言う。
ひとつ。必ず新しいことをひとつ行え。
ふたつ。現場では監督は絶対に悩むな。
みっつ。現場では大きな声で指示を出せ。
最初の言葉は監督の作品を観るに、なるほどと思わされる。東宝のもうひとりの天才・黒澤明を向こうに回し、どちらかと言うとA級大作(本来的に番組編成された、収益のための映画作品群)と言うよりも、Bライン(通期予算のキャッチアップだったり、企画・スタッフ発掘のためだったり、穴埋めのための編成作品群)から発してきた、変化球投手の印象の強い監督。予算も制限された中では、脚本上も演出上もアイデアが必要だ。岡本喜八の作品はいずれも“一発アイデア前提”の技巧系作品も多く、その点からも鬼才と称されている。それに倣ったのか、冠さんもいろいろな“初”に挑戦している。当時、スタジオ内でしか使用されていなかったビデオキャメラをロケーションに持ち出す(当時は巨大で重量も相当だった)、すべてのカットを望遠で撮る、タイトルテキストを長くしてみる――等々。これは確かに“喜八イズム”だ。
ふたつめ。これは現場経験者なら誰もが納得がいく。現場の責任者が悩めば、スタッフは皆不安になる。なかなか難しいことではあるが、“確信を持っている風”でどっしりと真ん中に座り、スタッフを安心させてコトを進めるのは、監督にとってとても重要なことなのだ。
みっつめ。
監督はふたつめを冠さんに話した後、しばらく考え込んだらしい。みっつめを思いつかなかったのかもしれない(ちなみに冠さんは、ヒトに説明するときは“ポイントは三つある”と必ず言うこと、とも言っていた。思いつかなくても“三つ”と言い、話しながら考えろと言っていたのを思い出した)。暫く経って、ようやくこう話されたとのことだ。しかしこれもまた演出者としては、現場の運行リーダーとしては、最も重要なことだ。
どういうことか?
つまり、その空間を支配するのは誰か?ということだ。会議やスポーツ、集団作業時にはその群れを率いる力が必要だ。
撮影現場にはいろいろな力学が作用する。有名俳優や大プロダクションのマネージャー、ベテランのキャメラマン、交渉して撮影現場を仕立てる製作担当――皆、自分の業務がうまくいくように“カマし”合って聞き訳が無く、そうしてその限定された空間と時間の支配力を持とうと競ってくる。監督としてはそれらを御し、自分の作品を撮り上げる事に貢献させるのが命題でなければならない。それら暴れ馬スタッフをグリップするため――戦場のような制作現場を支配するためには、大きな声が必要なのだ。『責任者はオレだ』――そう宣言しながら作品を撮るために、である。そう言えば喜八監督は、現場でも“座らない監督”として有名だった。いつも走り回り、いろいろなパートに指示を出していたのだろう。冠さんも御一緒させて頂いた現場では、プロデューサーにも関わらず走り回られていたのを思い出す。
こんな情報量だけではない、冠さんからはたくさんのことを学ばせてもらった。当時、付き合っていた彼女と一緒に麻布の御自宅に押し掛けたこともあったが、笑顔で迎えてくれたことを思い出す。今でも“演出”という意味で、あの時代ほど様々なことを脳内にインストールした時代は無いと思う。
間違いなく私の演出の師匠である。
生前の岡本監督に会った――見かけたことがある。歌舞伎町を歩かれていた監督にスレ違っただけなのだが、『あれ――岡本喜八監督だ!? 真っ黒だ』と思ったことを鮮烈に覚えている。「汚れが目立たない」という理由でいつも黒衣で過ごされていたそうだ。お弟子さんである冠さんも、その流派継承者としていつも真っ黒だ。
故に私も冠さんを敬い、一派を形成する意味で黒い装束なのである。
③。
映像の原体験、というのがある。誰しもあるだろう。“初めて観た映像コンテンツ”の記憶である。
私の場合は白黒動画のアニメーション『鉄人28号』(一九六三)である。現在のエイケンが作った、戦後でもかなり初期に当たる作品だ。私の生まれる前の作品なので、おそらくは夕方の再放送の時間帯に観たのだと思う。その物語には、大日本帝国の軍事技術で作られた人型兵器・鉄人28号が登場するのだが、鉄人は主人公ロボットとしてそれはもうめっぽう強かった。少年探偵・金田正太郎くんが操縦機を使って鉄人を操り、悪の巨大ロボット等が絡む不思議な事件を解決する。子どもたちは皆、鉄人が大好きだった。ある時、そんな無敵の鉄人の前に、まったく歯の立たない相手が現れた――それがブラックオックスだった。漆黒の巨大ロボット。何故か鉄人はオックスに近づくと力を失ってしまう。今でいうジャミング機能で操縦電波を妨害する能力を持ち、鉄人に匹敵する強力な体躯を持つオックス。鉄人はついにオックスに勝てなかった。私はその結末に『えーっ!? 鉄人勝てないの!?』と衝撃を受けたのだ。そんな子ども番組は初めてだった(と思う)。『オックス、ヤなやつだなあ!』と、友だち連中の中にいる、ケンカで勝てない奴に抱いてしまう負け犬の気持ちのような、憤懣やるかたない幼心でいたのである。
ところがである。ある時、また別の敵に鉄人が手こずっていた時の事。正太郎くんだったか、大塚署長だったかがオックスの事を思い出すのである。「そう言えばオックスは!?」「警視庁の倉庫に眠ってるぞ!(確かそんなセリフ)」等と言う会話の後、普段は鉄人のメンテナンスをやっているはずの敷島博士がカマボコ型トレーラーに載せたオックスを現場まで運んできた。
もうことつ、私が愛読し続けている作品がある。獣木野生氏の“PALM”シリーズ。物語の解説をすると長くなるので詳細は省くが、この作品に私は人生を学んだ。最初に読んだのが一二歳の時であるから、三十五年間も私の生き方の指針となっている劇画である。その敬愛する主人公が、また黒衣なのだ。
以上が私、公野の黒尽くめの(多い)理由である。
ちなみに最近多かった青いシャツには特に意味は無い。大学勤務が増えてきた折りに「講師らしくしないと」と考え、量販店で白シャツを大量購入しようとした時に売り切れていて、もう一度来店するのがメンドくさく、代わりにあった青シャツを買っただけである(もちろん青は好きな色なのだが)。

希人伝 その二.【実相寺監督のこと】
「公野さんは新人とばかりつき合いたがりますね」
よく言われる事だが、そう言えばもう習慣のようになっている。気がつけば、そうである。
この事に触れるためには、ロカルノ国際映画祭グランプリの日本人唯一の獲得者であり、数々のウルトラシリーズ名作を撮られた巨匠・実相寺昭雄監督との事を書かなければならないと思う。
監督と初めて御会いしたのは、いつの日の事だかもう定かではない。
おそらくは私が円谷プロダクションでプロダクション・マネージャーをしていた頃だろう。
ただその時の監督は雲上人というか、私にとっての有名人、尊敬しなければならない人、という感じで、畏まり過ぎて顔もろくに見れなかったのではないかと思う。
きちんと向き合ったのは、私がプロデューサーとして一本立ちしてからである。
監督の著作である『東京デカメロン』(一九九六)の映画化をする際に御挨拶した。しかし、その時はお弟子さんに監督させるという事もあり、製作元と制作会社の代表としての御挨拶だった(監督が社長をやられていた訳ではなかったが)。そのすぐ後、私が青山真治監督の『冷たい血』(一九九七)を東宝の砧撮影所で撮っていた時、実相寺監督が『ウルトラマンティガ』を東宝ビルト(東宝が経営する、砧にあった、かつての“東宝美術センター”。その当時の東宝ビルトである。現在は閉鎖され、宅地転換されている)で撮影している、と聞いた。砧撮影所とビルトは歩いて一五分くらいの距離だ。ひさしぶりの“実相寺ウルトラ”の現場を覗きたくて、ビルトに中抜けした。そうした処、美術デザイナーの池谷仙克さんと食事をされていて、弁当を下さった。しばらく経って、やはり違うお弟子さんが監督する『infinity∞波の上の甲虫』(二〇〇一)と言う作品の製作を私が行うことになり、今度は作品美術や資金繰り等の相談をしなければならない事もあり、ミーティングが続いた事で少しずつ巨匠の素顔に触れていった。奇人変人との評判の名高い監督だが、スタッフルームで話す監督はそんな風な印象も無く、巨匠風も吹かさない、むしろ製作元プロデューサーへいろいろと気を遣う、現場棟梁らしい振る舞いを心がけられていた。旧作の話をねだる私に、少し照れ臭そうにいろいろと話してくれていた。
忘れられないのは『ユメ十夜』(二〇〇六)である。
夏目漱石の有名短編集――十夜の漱石の夢記録を、一〇人の巨匠・新人・話題監督の混成チームにより一本ずつ短編を撮る、と言う無謀なオムニバス企画だった。この第一夜を監督に御願いしたのである。
実はこの作品の製作には深い事情があった。当時、私は老舗の映画会社の製作と配給担当の取締役に着任したばかりだったのだが、大会社的体質なのか、とにかく外部の企画に依存する癖と、高いコストに慣れきっていて、通期でも中期計画でも予算を意識しておらず、バランスシートどころか、PLもCFも知らないという有様だった。なのに「ヒット作が出ない」と不貞腐れている。まるでヒットとは宝くじのように考えていた。「コンテンツ企業としての価値を創出するには、タレント(才能)と自前ラインの整備」と言うのは私が円谷で習った“コンテンツ事業=兵站論”である。既に完成されたタレントに依存しても、そんなものは現金以外には仁義が無い。すぐに離れていく。その会社オリジナルの価値を創出しなければ、世間はその会社を必要としてくれない。私のその会社でのミッションはまさに自前ラインの確立だった。東北新社やサンライズ、スタジオジブリなど、ヒット作と独自のクリエイティビティによって経営を支えている制作会社群のすべての経営者がそれを知っている。
また映画とは配給力である。強い配給力があれば多少の作品のクオリティの多寡も押し返せる力となる。映画事業に置いて最も重要な兵站は配給力なのだ。実はその会社は配給力を担保する直営興行群(映画館チェーン)も持っていた。しかし「映画館よりも映画作品が大事」「観客より撮影所が大事」と、かつての東宝争議のような時代遅れの風潮が社内の大勢を占め、その貴重なインフラに誰も価値を置こうとしていなかったのである。まるで子どものようだった。
私自身は東宝を源流とする円谷一派のラインプロデューサー出身であったため、円谷系の「低コスト・最大成果」と言う制作ラインがソリューションでありインフラであった。それをその会社のオリジナルラインに供出しようと考えた。私の会社だ。大切な資産を投入するのは当たり前だ。
かくして“最短距離でのライン整備”のため、「1本で一〇倍美味しい」オムニバスであり、興行的には巨匠の力を借りるべく巨匠の食指が動く歴史名作を原作とし、孵化したばかりの新人たちを混成させ、会社の新人たちも大いに参加させると言う、手間もゲインも一〇倍の最重要企画となった。
その大切な作品の最初の短編、第一夜を実相寺昭雄に頼み込んだのである。
東宝撮影所のある砧の成城学園前の喫茶店で御願いし、そして快諾してくれた。
無論、夏目漱石原作と言う面白さからもあったろう。しかし弟子ふたりに初陣を飾らせてくれたプロデューサーへの仁義でもあったと思う。
「脚本をさ、久世光彦に頼もうと思ってさ」
監督は言った。久世光彦――『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』、向田邦子作品等、お茶の間ドラマの巨匠だ。監督と同じTBS出身の天才演出家である。
「?」
自分の演出作品ならいざ知らず、あの人が他人に脚本を書くのだろうか?と不思議そうな面持ちの私に、監督は続けて言った。
「TBSの同期なんだよ」
そうだとしても不思議な感じだった。片やテレビドラマで一世を風靡した天才演出家、片やヌーベルバーグの旗手とまで言われた、世界に冠たる国際映画祭で日本人で唯一グランプリを取った巨匠だ。折りが合うはずもない――そう思っていた。
衣装合わせの時である。私が衣裳部屋に入ると監督の怒鳴り声が聞こえる。どうやら監督の旧作のDVDの発売が決まっていたらしいのだが、そのジャケットがお気に召さなかったらしく、携帯電話でビデオグラム会社の担当を怒鳴りつけていたのだ。少々驚いて尋ねた。
「どしたの?」
すかさず主演の小泉今日子さんが、
「今朝、ここに私が入ってから、ずーっと怒ってますよ」
と教えてくれた。虫の居所が悪いらしい。監督はジャケットの色校を畳に叩きつけて携帯電話を切ってしまった。私に気づくと、
「いやあ、あまりにもビデオ会社がヒドくってさ」
と言い訳しつつ、ようやく衣装合わせに入ってくれた。と、そんな空気の中、久世さんがやってきた。どうなることかと気を揉んだ。そうしたら――どう言う事であろうか、久世さんの顔を見るなり、監督は破顔一笑、
「やあ!」
「やあ、自分の時より早く書いちゃったよ。アレでいいかい?」
あんなに嬉しそうな監督の顔を見たのは後にも先にもこの時だけだ。
やがてふたりは衣装合わせも主演女優もほったらかし、齢相応の「身体の調子悪い自慢」を始めた。
その談笑を眺めていてなんとなくわかってきた。かつてテレビの地位が低かった時代に、若い力で後発局というハンデを跳ね返し、視聴率でも内容でも金字塔を打ち立ててきたふたりだ。きっと戦友なのだ。ジャンルは違っても、同じ作品に参加するのもこれが初めてでも、ふたりはいつも同じ心で戦っていたのだろう。そんな気を置かないふたりの、開けっぴろげな時間だった。
小泉さんが、
「久世さんは衣装合わせの時はいっつも衣裳に興味が無い感じで、今回は演出が実相寺監督だからと思って安心してたのに、これですよー(笑)」
と苦笑している。しかし私にとってもとても楽しい衣装合わせとなった。
余談ながら私は学生時代、久世さんが主宰されていたドラマ制作会社の入社試験を受けた経験がある。最終面接で久世さんに私が好きだった『キツイ奴ら』と言うドラマの話をした時、とても喜んで下さった。内定を頂いたのだが、残念ながら私は円谷へ進む事を選択した。その時のことを御話すると「キミの筆記試験が一番だったんだよ。作文が良かったな、よく覚えてないけど」とリップサービスを下さった。
監督の撮影現場はさすが巨匠らしく、組(その監督のルーティンな撮影チーム)も慣れており、スムーズだった。場所はやはり、かつてウルトラシリーズで使用していた東宝ビルトである。私もこのスタジオで『電光超人グリッドマン』や『ウルトラセブン』のMD映像等を撮って育った。円谷育ちは皆、このスタジオが使い慣れていて、しっくりくる。
ただひとつ撮入前のオールスタッフ・ミーティングの時なのだが、監督はすこぶる機嫌が悪かった。ミーティングが進み、監督自らが技師さんたちを紹介し、直接、指示を出しているのだが、あろうことか重要な配給宣伝チームの紹介と取材の説明をトバしかけてしまった。慌てて私が割って入り、監督の代わりに紹介し、制作宣伝の撮影の御願いをする。しかし不機嫌そうだ。何か気に入らないことでもあるのかと、ちょっと気になった。
そんな事を余所に、撮影は極めて順調に進んだ。相変わらず、現場にいるスタッフは当事者でありながら何を撮っているのか判然としない撮影だ。天才・実相寺昭雄の真骨頂でもある。編集の段になって上がってきた映像素材を観、スタッフは初めてその画にどんな意味があるのか、監督が何を撮ろうとしていていたのかを知る。
撮影は終わった。
「第一夜」は完成したが、他の作品はまだ撮影中だった中、監督が新作を取る事になった。『シルバー假面』だ。かつて、TBSから独立したての時に挑んだ意欲作のリメイク企画。
やはり東宝ビルトで撮影との事で、監督が好きだと言っていた饅頭を駅前で買い、太田裕輝プロデューサーと久しぶりに陣中見舞に伺った。ところが一歩、ビルトのオープンセットに足を踏み入れた途端、いつもの滑らかな空気と言うか快調な雰囲気が、無い。いや、別に何か問題がある訳では無さそうだが何かスタッフ全員がピリピリしていて笑顔が無い。どうしたのか?
監督がオープンに組まれた美術の脇の空き地で椅子に座り、照明の牛場さんと何かを話している。
「監督、クランクインおめでとうございます――饅頭買ってきました!」
と近づいた――そして愕然とした。
顔が――監督の相貌が、抗癌剤使用者の特有のものだったからだ。絶句した。
「……ああ、ありがと」
監督はめんどくさそうにそれだけ言うと、シナリオに目を落とした。
衝撃を受けた私と太田プロデューサーは、そのままビルトの食堂に行き、今後の話をした。監督にもう一本だけでも撮らせたい――! 監督と関わった全スタッフの気持ちは間違いなくそこにあるだろう。何が出来るか、可能な限りの事をやろう、と約束した。
夢を見ていた。
FAXを送っている夢。何か大事なスケジュール表をFAXに突っ込み、必死にボタンを押すのだが、最後の数字を何度も押し間違える――そんな夢だ。私が焦っている時によく見る夢。送り先は実相寺監督の会社だ――と、突然FAXが鳴り出した! びっくりしてFAXの受話器を上げた――目が覚めた。私の携帯が枕元で鳴っていた。私はその当時、充電する時はいつも電源を落とす習慣だった。なのに鳴っている。
「監督が――実相寺さんがね、亡くなった」
目の前が真っ暗になった。
御葬儀が終わり、しばらく後、監督を悼む会が上野の東天紅で催された。入り口で、かつて監督が揮毫された、直筆の私の名札を頂いた。
「ようやく死んでくれたね、あのクソジジイ!」
どっと会場は笑いに包まれた。
それ以降、かつてのウルトラの役者さんやTBSの方、ご家族が次々と明るい御話を続けられる。どんなに変態だったかとか、どんなにヘンな撮り方をされたかとか……さすが監督、破格である。本当に良い会だったと思う。
私は発言することは出来なかった。胸がいっぱいになっていて、ちょっとでも話すと泣いてしまいそうだったからだ。本当は皆に言いたかった。そんな六十年代、七十年代のかつての映像界の風雲児だという事だけではない、『帝都物語』以降、たくさんの若い才能を自分の現場に参加させてくれたこと、そしてその御蔭で我々のような新しい世代が、樋口真治や原口智生のような人材が、今は映像業界の真ん中に立っているということ――監督は私が関わった作品のように後進を育ててくれるような“優しさ”があった、だから、みんな監督を目指して頑張れたんだ、と。
監督のように何にも似ず、「0」から「1」を生むようなクリエイターが絶えて久しい。私自身が撮ってもどうしても監督の画に似てしまう。庵野秀明を初めとして多くの作家がその影響から脱せずにいる。正直、監督の功罪の罪の部分である。苦しい。しかし、こんな時代だからこそ、「0→1」を育てたい、生み出したいと切に思う。恐らく新人とつきあう事で、それが成し遂げられるのではないか?と無意識に思っているのだろう。それが私の中の実相寺昭雄に報いる事なのだ。
『ユメ十夜』の公開は監督が亡くなった翌年、二〇〇七年一月二七日。ちょうど七年前だ。公開遺作となってしまった。久世さんも公開の時には亡くなっていた。プロデューサーとしては忸怩たる思いの公開だ。しかし御蔭で劇場作品初という監督を数人起用できた。
監督、ありがとうございました。

希人伝 その一.【浜野先生のこと】
東京大学大学院情報学環にコンテンツ創造科学産学連携教育プログラムがあった2005年頃、講師として御声掛け下さったのが浜野先生だ。礼を尽くして頂いて特任准教授として迎えて下さった。
浜野先生とは以前、経済産業省の放送技術審議会で私が世界で最初に全編をHD-camで撮影をした映画プロデューサーとして招聘された時に出会っていた。こう書いてしまうと得意げにも読めてしまうが、保守的なフィルム映画業界の中で、これはリノベーションではなく産業構造破壊の暴挙だと捉えられていて、実は当時はとても苦労していた。もともとはジョージ・ルーカスとSONYが開発したものだったが、インフラ更新を前提とする新技術の登場に、配給・興行を始めとする既存団体は恐怖心を持っていた(ルーカス自身も全編撮影は控えていた)。その集団の中に突如、呼び出しを受けたのである。
若さもあったが、そのメリットの方が高いという自信もあった。多少の喧嘩も覚悟で会議に臨む。
会議の冒頭、私が件の反逆プロデューサー(?)と知った浜野先生がツカツカと近づいてきた。思わず身構えた私に先生は笑顔でこう言ったのだった。
「あれ(HD-camのこと)、青色キレイだよね!」
一瞬、何のことたか解らない私に先生は続ける。
「あれだけ青がクリアだと合成し易いよね、ずいぶんコスト圧縮になるでしょ? うん」
ようやくそれがHD-camのことだと解った。浜野先生は特撮合成というか、デジタルのコンポジット処理の事を言っておられた。デジタルの合成では、ブルーやグリーンの部分をデジタル的に選択、マスク処理して、別々に撮影したものを合成する技法がある。HD-camはその点にプライオリティがある、と見抜いておられたのだ。HD-camは現在ではほとんどすべての映画撮影チームが使用するようになった。もちろんDigital to Digitalである事の技術的優位性のみならず、配給においても今では当たり前のデータ配給等、フィルムでは問題となっていた重量と運送費の問題、劣化に対する保存管理費用、さらにDVDパッケージ等の商品化原価の点で大規模な圧縮を実現している。HD-camは現場とビジネスの両方に貢献する技術だった。しかし、当時はそれを口にすると既得権益者を刺激する事にもなり、立場のある人ほどこの問題に対して口をつぐんでいた。作品の上映に際しては私もずいぶんと圧力を受けた。それを先生は明け透けに発言し、あまつさえ褒めて下さったのだ。
その新しい技術や知識に対する意欲や分析力に驚いた。また一方で権威の集団の議長的立場にあって、得体のしれない技術を使う新人に遠慮なく話しかける、気さくな人柄にも驚かされた。
御蔭で場は和み、スムーズに新技術の実地成果を報告することが出来たことを覚えている。
その時の事を覚えておられたのだろう。
「コンテンツの人材育成に技術とビジネスの両方が必要だ」と言う事で私を思い出して下さり、教育プログラムに呼んでくれたのだ。私は先生の課目後任として映画産業論を御引き受けした。
プログラム参加以降はさらに縁が深くなった。まだきちんと立ち上げられてはいないが「コンテンツ・プロデューサー協会・学会」を提唱下さり、実業と学術の架け橋を意識し始めた私には、とても心強い存在だった。
研究室にぶらりと遊びに行くと、思わず「なんで先生がそれ持ってるんですか!?」と言ってしまうような、ここには書けない色々な珍しい資料を見せてくれたり、若い時分に交流したという巨匠たちの、やはり書けないような話をたくさん聞かせて頂いた。本当に楽しかった。
興味のある方は是非、先生の著作を読んで頂きたい。いずれも時代には早い、慧眼とも言える先駆的な捉え方や論証が、実証的に語られているものが多いのが特徴である。
黒澤明監督や小津安二郎監督の研究者として本も出されているが、黒澤組や木下恵介監督組にも現場スタッフとして参加されている。本当に実証的な方だ。また私の読んだ処、キューブリックについての研究本が数ある中で、きちんと技術面からアプローチした内容となっているのは先生のものだけだと思う。作品論からだけではなく、その時代における技術論を「まったく新しいものを創出している」と、きちんと評価している。新しいものに優しく、理解をし、育てようとするのが研究者・浜野保樹なのだ。
そんな浜野先生が亡くなった。
二〇一四年になったばかりの一月三日、六十二歳だった。
欺瞞と権威と似非、独り占めと新人いじめの多いコンテンツ産業界にあって、実に真摯に、新しいものを見つけると声を大きくして皆に報せる、風に吹き飛ばされそうな芽を手で覆い、そっと水をくれる――そんな方だった。
先生に感謝しているクリエイターや研究者は数えられないほどだ。
この国のコンテンツ政策も速度を落としてしまう可能性が高い。
そうならないようにしなければと思う。
黙祷。
